reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

どうしてこういう言い方でしか話せないんだろう?

「私はこんなに大変なのに、それに比べてあなたは何だ!」という物言いはどうにかならないかなぁ。


苦労なんて比較検証して等価交換するものでもあるまいに。
なんで、「じゃあどうやってその大変さをなくそうか」という方向に話が進まないのだろうか。


「苦しいのをがんばる私」をアイデンティティに据えられると、話が続かないのでやっかいだ。


でも、単に屈折している人は、そんなに嫌いではない。自分を相対化できる人は、分かり合えなくても話し合うことはできる。
人と人とを隔てる、分かり合えない「壁」を理解できる(アイロニカルな立場を取れる)人とは、分かり合えなくても共に生きていくことは可能だ。


問題は、このような言葉が蔓延している空間は、実に「操作しやすい」空間であることだ。
そもそも具体的な打開策や話し合う余地が残されている状態なら、このような言葉は蔓延しない。


この言葉がやっかいなのは、判定を下すのは「がんばっている私」を見ている他人なんだけれど、それは一番がんばった人で、そのがんばりってのはなんだかわからない、ってこと。
それが、閉塞的な空間のなかで「心のありよう」として「がんばり」が強調されると、コミュニケーションを操作する人間が出てくる。
その人間が快適に暮らすために、周囲はいいように操作され、「がんばりが足りない」「がんばらない」人間を時々祝祭の生贄にあげ、その人の「がんばり」の「援助」のために、コミュニケーション断絶や言葉の暴力が行使される。


操作された人間が、心の底から本気で「あなたのために」と操作された人間に暴力を振るえるようになったときに、恐怖と祝祭による小集団の権力体制は確立されたといっていいと思う。
もはやそれは仕事ではない。


別に「連合赤軍」とかでなくても、学校でも、職場でも、一般的に起きていることだ。


長時間同じ場所に縛り付けられ、それは「おまえがミスをしたからだ」と責められ続け、論理的な反論を「協調性がない」と断じられ、仕事上のコミュニケーションを巧みに断絶させられ続けていると、慢性的な疲れと、興奮と消沈の反復のなかで一種の洗脳状態になってくる。
この意味で、長時間労働は、生産性という観点からも悪だ。


経営者が放置し続けることで、この状態は成り立っている。中堅層をローンで押さえ、若者は何の教育もせず「替わりはいくらだっているから」と高をくくっている。でも、それは長くは続かないよ?自分だけは「勝ち逃げ」できると思わない方がいい。
しかし、やがて来る「大崩壊」をなんとかソフトランディングさせるために、むなしいがんばりを続けるしかないのか……




内藤朝雄さんの「いじめの社会理論]」、長時間労働で疲れた頭に理論的な話はなかなか入っていかないけれど、この人が伝えたい真摯な気持ちは直接胸の中に届く。
学校におけるいじめを理論的に取り扱った本だけれども、「中間集団全体主義」と規定される、いわゆる「学校的な空間」の分析には非常に有効だと思う。


こういう本に出会いたかった。すごくうれしい。


昨年10月には「〈いじめ学〉の時代]」が出版されました。こちらをまずお勧めします。