reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「抗議の言説」が古いのだ

2008-04-26さん


昨日の議論を見る限り、年寄りはみな「自由な社会で、一定の能力がある人が報われ、格差があるのは当然」みたいなことばっか言ってる。(Bグループの大半は50代以上のおじさんだ。)一方でAグループの人はおおむね30代で、規制が必要、社会保障を充実させろ、という。

本来、強者は自由主義を望み、弱者は規制・福祉社会を望む。


そう、日本ではなぜか年寄りが強者で、若者が弱者なの。強者の年寄りが自由を支持し、弱者の若者が規制を望む。


絶望的に、絶望的なほどに、社会が「年配者に有利な社会」を作り上げてきたから、だよね。日本では。(欧州でも米国でも社会はこうなってはいない。これは日本独特です。)


本来的には圧倒的な強者である若者があきらめざるを得ないほどに、巧妙で、圧倒的に強固で、絶望的なほどに盤石な、「年配者が有利な仕組み」をこの国は作り上げてしまった。

この「仕組み」は二通りあって、

  1. 行政や企業が既得権擁護をしている
  2. そもそも、このような事態における抗議の仕方が他にない

ということだと思います。


前者については本文でも触れられていますし、現実的な構造については様々な解析がされているでしょう。

ここでは触れません。


問題なのは後者で、要するに、このような「弱者の論理」でしか抗議の言説を我々が持たない、と言うことだと思います。

すでに問題は新しくなっているのに、言説は旧態依然としたままで、だから「救い」を求める先も「国家」や「制度」に求める。

この言説は、これまでの左翼言説とほとんど変わりません。


で、問題なのは、こうやってテレビに出演している人の言説がとても古いままなので、実際に若者と呼ばれる人たちが抱いているもやもやを言葉に出来る人がいないこと。

この番組は観ていないのですが、こうやってテレビに出てまとまった発言を出来る人って、既得権者から見た「若者」に過ぎないんですよね。


いろいろ言われていますが、僕は宇野常寛さんが提起した「ゼロ年代の想像力」という、「ゼロ年代の想像力にマッチした言説が必要なんだ」という主張には賛同していて、それは上記に挙げたような旧態依然とした言説とは隔絶したものだと思う。

宇野常寛さんは、「未来日記」(えすのサカエ)などを例に挙げながら、「サバイブ主義」化し、もはやどうやって生き延びていくかを個人個人が考え実践するという前提で個々人が世界を捉えている「想像力」を指摘していますが、全くその通りだと思います。


赤木智弘さんが「若者を見殺しにする国」で提起した問題についても、新しい視点というのは、これまで「弱者」とされてこなかった30代非正規雇用者に光を当てたという点で、言説自体は古いものを使うしかなかった。


まだ新しい状況に適合する言説が生まれていないんです。


最初に戻ると、だから30代が守旧派で50代以上が新自由主義派で、それらが対立としている構造はたしかに社会にも見られるんだけれども、それはいったい誰の頭の中にある概念かと言えば既得権益層である団塊の世代のもので、格差直撃世代である30代の若者達は自分たちを語る言葉を未だ持っていない状況にあると思います。

朝まで生テレビ」を誰が見ていたのか、それを考えれば見えてくるものがあると僕は思いました。