reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

なぜ、表面上は攻撃的でない「反論」にわたしたちはいらだつのか?

ときどき、自分が書いた文章に対する反応に、いらだちを感じるときがある。

具体的にどこか、と言われるとわからないのだけれども、漠然と、不安や、いらだちに駆られる、そういう文章というものがある。

それはいったいどういう文章なのだろうか?


それは、「批判」する文章ではなく、「批難」する文章である。


どのような文章かを例示するためには、少し迂回する必要がある。


言葉には二つの側面がある。

メッセージと、そのメッセージを指し示すメタメッセージだ。


なにも難しい話ではない。


「こんにちは」という言葉を考えてみよう。


「こんにちは」は、それ自体はほとんど意味のない言葉だ。

けれど、「私はあなたに敵意を抱いていません」という、私の姿勢を示している言葉ではある。

この言葉は、「今、私はあなたとコミュニケーションをしていますよ」ということを示している。

言葉そのものがもっているメッセージではなく、そのメッセージが発せられることで相手とのコミュニケーションを開くというメタメッセージだ。


ところで、にこりと笑いかけてきたので、握手しようとして手を差し出したら無視した、というような例は、メッセージとメタメッセージが解離した例だろう。

一連の動作のひとつひとつは、私に対して攻撃的ではない。

けれど、私とのコミュニケーションは明確に拒絶している。


このような、メッセージとメタメッセージが相反しているありかたを、グレゴリー・ベイトソンは「ダブル・バインド」という概念で示した。

誤解を承知でわかりやすく例えると、親が子供に「おいで」と(言語的に)言っておきながら、いざ子供が近寄ってくると逆にどんと突き飛ばしてしまう(非言語的であり、最初の命令とは階層が異なるため、矛盾をそれと気がつきにくい)。呼ばれてそれを無視すると怒られ、近寄っていっても拒絶される。子は次第にその矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となり、家庭外に出てもそのような世界であると認識し別の他人に対しても同じように接してしまうようになる。

ダブルバインド - Wikipedia]


先ほどの「こんにちは」という挨拶も、場合によっては相手への攻撃に転ずる。


たとえば、好意を持った異性に親しげに「やあ」と声をかけたとき、固い声で「こんにちは」と返事をされたら、手痛い拒絶を受けたとわたしたちは感じないだろうか。


メタメッセージはメッセージからは独立し、文脈に依存する。

文脈によってそれは正反対の意味を持ってしまう。


さて、僕は便宜的に「批判と批難」と書いた。これはどういう意味か。


「批判」は、書かれたテキストに対して、それを議論するというメッセージの応答だ。

だから、それがどれだけ反対の意見であろうとも、そこには敵意はない。

なぜなら、「反論」という形で、コミュニケーションを開始しようとするメタメッセージがそこに含まれているからだ。


だが、「批難」は次元が異なる。

その内容が一見侮蔑的でなくても、「批難」された側は非常に気分を害する。

なぜなら、そこには表面上のメッセージの一つ上の次元で、「あなたとはコミュニケーションを取らない」という拒絶があるからだ。


そのような、コミュニケーションを拒絶したメッセージを受け取るとき、わたしたちは、良く理解できぬまま傷つく。


ところで、そもそも他者との議論は、同意するにしろ反論するにしろ、まず一旦相手の言葉を受け止め咀嚼し、述べられている事柄を明らかにしてからそれらに対して論を立てる。

「議論」とは、意見が不一致ないし対立している場合にそれを一致させたり、表明された意見の真偽を明らかにしようとするコミュニケーションのことです。

(「レポート・論文の書き方」河野哲也p.3)

議論とは、コミュニケーションなのだ。それは「批難」ではなく、「批判」なのだ。


もしあなたが議論をしていて不快になるとすれば、あなたが体調不良だったり言葉が上手に出なかったり自分の認識不足を恥じる以外にも、要因があるかも知れない。

ダブル・バインドのメッセージを発せられているのかも知れない。


コミュニケーションを拒絶しつつ、言葉を紡がれると人は段々と相手との応答がとれなくなる。

自分自身の感覚と、相手に対する認識の間に齟齬を感じる。


そのとき人は、「何をこの人は言いたいのだろう」と問う。


けれど、いくらそのメッセージを分析しても、答えは見つからない。


メタメッセージは、文脈に依存するからだ。

挨拶が攻撃に転じるように。

親しげな笑いが皮肉に転じるように。


このようなやりとりは不毛だ。

不毛だと言うことを認識して、仕事などでそのコミュニケーションを止められない時には自分を守ることを最大限に考え、また止められるなら即刻止めるべきだろう。


このようなやりとりは、腐食液のように、徐々にこころに浸透し、こころを溶かし腐らせてしまう。

それは、弱い毒であり、弱い毒であるが故に、気づいたときにはすっかりその毒に汚染されている。


だから、そのような「攻撃」には、自らの感覚を頼りに、断固とした対応をしなければならない。

裏声で行われる攻撃には、はっきりと対処を。こころが壊される前に。