誰の「想像力」なのか
「ゼロ年代の想像力」を途中まで読んだ。
根本的なところで違和感を感じたので書く。
僕はこの論評自体は非常に良くできていると思う。
論立て自体にも違和感はない。
しかし、その論の基礎となる部分について、こういう記述の仕方でよいのか疑問が湧いた。
この本のタイトルは「ゼロ年代の想像力」だ。
<想像力>なのだ。
「ゼロ年代の論壇」でも「ゼロ年代のサブカルチャー」でもない。
<想像力>という以上、「誰かの」頭の中の想像力なのだろう。
では、一体誰の想像力なのだろうか?
この本は導入部分から、「東浩紀の劣化コピー」を攻撃していて、その劣化コピーは90年代の古い論壇の論理を未だに引きずっているという。
80年代よりは新しいけれど、ゼロ年代よりは古い90年代の論壇の想像力だ。
宇野氏の整理に拠れば、90年代もゼロ年代も抱える問題は同じだという。
「大きな物語」が失墜した90年代以降、個々のコミュニティが共通する「データベース」から小さな物語を引き出して、それに依拠して生きているのが現在であり、これは90年代もゼロ年代も変わらない、という状況だ。
大きな物語が失墜し、人々の間で共通する物語の基盤が失われたうえで、人はどのように生きていくのか。その点が問題であることは変わらない。
言い換えると、そのような人々の間の共通項としての「物語」が消えたことで、「わかりあえない」ことを分かり合い、その宙づり感に堪える、ということが求められている社会になったと言うことだ。
社会学者の宮台真司氏は、オウム事件が起きたとき、大きな物語の失墜に対してそれに耐えられず、サブカル的な「大きな物語」にすがったのがオウムであり、それに対しコギャルたちは「まったりと」生きていくことでこの宙づり感に堪えている、と主張した。
ここからが90年代とゼロ年代で異なる。
90年代の想像力は、この宙づり感を、耐え難いものとして想像上の異性に「受け入れてもらう」ことで回避する道を選んだ−いわゆるセカイ系である。
エヴァンゲリオンでは、テレビ版の、世界から引きこもるという回答から、劇場版の、分かり合えない他人と傷つけあいながら生きていくという選択を示した。
これは画期的な問題提起だった。
だが、あまりに宙づり感が激しすぎ、人々はそのような状況に耐えられなかった。
それ故人々は、「つまらない自分を強大な力を持った異性−戦闘美少女−が受け入れてくれる」という物語群に飛びついた。
セカイ系の作品群だ。
「最終兵器彼女」「イリヤの夏・UFOの空」「ほしのこえ」が代表的な作品だ。
そこでは、平凡な主人公は、非凡である異性に受け入れられ、愛され、至上のものとされる。
自分は平凡なままで、全てを受容されるのだ。
その上で、異性の死によってその物語は頑強なものとなった。
ところがゼロ年代は、もはや想像上の異性に頼れるほど状況はぬるくなくなった。
バトルロワイヤル的な状況下で、生き残ること=サバイブすることが至上命題となった。
人々は、他人に受け入れてもらうことではなく、その場で決断し、生き残っていくことを選択せざるを得なくなった。
決断主義である。
この作品の系譜が、「カイジ」「Death Note」「Fate/stay night」「野ブタ。をプロデュース」「未来日記」「Liar Game」といった一連の作品だ、と言う。
このような、ポストモダン的状況に対する人々の反応がすでに移行しているのに、批評家たちはそれに対して鈍感で、未だにセカイ系の想像力で批評を行っている、というのが宇野氏の指摘であった。
では、その「想像力」はいったいどこにあるのか?それが僕の疑問だ。
ポストモダン的状況というのは、そもそも人々に共有される「大きな物語」が失墜している、という状況だ。
そこでは、個々のコミュニティで「小さな物語」がそれぞれに共有され、人々はその物語でアイデンティティを編み、生きている。
しかし、人々が共通項として持つ物語がない以上、共通の感性というものはないし、いわんや「想像力」が同じではないはずではないか?
どうして「ゼロ年代の想像力」といえるものの存在が自明になるのだろうか?
そもそも「ポストモダン的状況」という定義において、批評を行えるのか?
その点から論じなければ、論そのものの基盤が崩れてしまうのではないか。そう思った。
みなさんは、どう思われますか?