reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

今必要なのは「日本語会話学校」ではないか?

英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい - 分裂勘違い君劇場 by ふろむださん


日本語圏から「英語」を考えるという思考法を少し転倒させて考えてみると、別の論点が浮き上がってくると思うのです。



視点を変えてみましょう。


「日本語を学びたいんだ」という「外国人」の人に、もしあなたが日本語を教えるとしたら、何から教えますか?




結構これは難しい問題だと思う。




万葉集を読ませるのか、古典文学を読ませるのか、ケータイ小説を読ませるのか。コミックを読ませるのか(では、どのコミック?)。


下町の日常会話を教えるのか、オタク事情について詳しく述べるのか、社会人の一般的なマナーについて教えるのか、日本の家父長主義的な家族間の間の会話を教えるのか、テレビの「おばか」について熱く語るのか。


時事問題ひとつとっても、簡単にはいかない。

朝日新聞的な切り口で教えるのか、日経新聞的な切り口で教えるのか、聖教新聞的な……しんぶん赤旗的な……もろもろ。

捕鯨問題」についても、「人道的にどうか」「株価がどう動くのか」「SGIがいかに捕鯨問題に取り組んでいるか」「日本の文化的側面です」とか、要するにいろんな意見があるのだ。




「いや、そんなことじゃなくて『日本語』を教えて欲しいんだ」と再度「外国人」に言われても、それがとても難しいことがわかる。




そんな、「一般的な日本語」なんか無いのだ。

どこか色づいている日本語しか無くて、それが役に立つのかどうかは、教えてもらう側が何を望んでいるかによって変わってくる。




でも、大人に教えるなら、ある程度目的がはっきりしているので、よくよく話を聴いて、方向性を一緒に考えていけば、それがもうすでに「日本語会話」の授業になる。




しかし、こどもに対してはどうか。

こどもに教える「一般的な日本語」って、それも「ツールとしての日本語」って、どういうものでしょう??




「日本語を守るために、英語ではなく日本語を学校で教えるべき」という主張が、実は上記のような具体性を全く欠いていることに留意すべきだと僕は思う。


英語を「ツール」と考えて、それを教えていくことはとても大切なこと。

日本語を「文化」として、それを伝えていくことも大切なこと。


でも、じゃあ具体的にどうするの?

それがないから、いくらでも語れるし、いくら語ってもかみ合わない。


今必要なのは、日本語だろうが英語だろうが、どういう「コンテンツ」を伝えるのかを議論することだと思います。

その意味で、「英会話学校」よりは「日本語会話学校」が必要なんじゃないかなー


というか、「日本語会話学校」に僕は行きたい(笑