reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「日本語」ってなあに?

注:引用が不適切だとご指摘を受けたので、お詫びして訂正させていただきます。それぞれの記事で書かれている「日本語」には、「混乱」や「不一致」というものはないと言うことですので。



いろいろと混乱が見られる「日本語は亡びるのか」問題ですが、ではその「日本語」とやらはなんなのかというと、みなさん概念がバラバラなんですよね。


ある人は「学校で教えている国語」、ある人は「日本文学」、ある人は「日本人が話す言葉」などと言う。そして、それぞれが、それぞれの思っている「日本語」を共有できていると考えている。


でも、バラバラだと思うんです、みなさんが言っていることって。


あのですね、簡単に「日本語」って言いますけど、それは「国語」でも「日本文学」でも「母語」でも無いですよ。


それらは位相が異なるものです。


以下、

の第1章「言語と国家」を元にお話しします。

「国語」の成り立ち

で、「国語」に関して言えば、明治の言文一致運動が重要な役割を果たしているのですが、それは「日本文学を生み出すため」に行われたわけではありません。


それはあくまで副次的な効果に過ぎない。


そもそもなぜ「言文一致」という行為、つまり話し言葉と書き言葉を一致させる運動が起きたかというと、「国民共通の書き言葉」が必要だったからです。


なぜか。国民共通の言葉がなければ、「法律」が書けないからです。そして、国家としての統一が取れないからです。




日本は明治維新まで、確かに徳川幕府によって天下統一されていましたが、それはいくつもの国からなる連合国家でした。


江戸時代においては、お国言葉がほとんどで、書き言葉と話し言葉は乖離していましたし、方言しかない状況でした。


共通語である「日本語」なるものはなかったのです。


というか、wikipediaを見ていただければわかるのですが、「国語」という言葉自体が明治に作られた言葉なんですね。


富国強兵による国民皆兵制度を支えるためにも、言葉を共通のものにすることが必要でした(この点はちょっこっと些細なつっこみ - finalventの日記さんが述べているとおり)。

命令が正しく伝わらなければ、軍隊が統一した行動を取ることは出来ませんから。


僕らが学校で習っている、いわゆる「日本語」は、「国語」として、明治に言文一致運動を通して作られたものです。

共通語は「帝国」の遺産

そもそも共通語というのは、「帝国」の残滓なんですよね。

帝国というのは、神聖ローマ帝国とか、イスラム帝国とか、そういう帝国です。


歴史をひもとくと、まず封建制の時代には、農業共同体があった。そして、それを支配する封建的国家があった。共同体が出来ると、その共同体と共同体の間にも都市(国家)が成立する。そして、それらの上に「帝国」があるわけです。


で、各封建制国家は、慣習や宗教や言葉がバラバラですから、それらの間を取り持つ「帝国」は、それらの国家や部族を超えた、普遍的宗教や共通語が必要とされました。


帝国の役割は各部族、各封建制国家を支配すると言うよりは、それらの「間」、つまり諸部族・国家間の交通・通称の安全を保障することでした。


特に言葉に関しては、帝国の根幹をなすもので、各共同体間の調整の前提となる「法」を記述するための重要な道具でした。


だから、それは細心の注意を払って書かれなければならなかったし、誰にとってもわかる言葉でなければならなかったのです。


そして重要なことは、それは「書き言葉」であることでした。そうやって、普遍的言語としての「書き言葉」が生まれたのです。


この時期は、「書き言葉」は法の記述のため、「話し言葉」は意思の疎通のため、と分かれていました。

帝国の解体と国民国家の生成

やがて帝国が絶対王政を通して国民国家へと解体していくときに、普遍的言語としての「書き言葉」は、「話し言葉」との統一が図られる。ルターの宗教改革などはそうですね。


やがて「書き言葉」と「話し言葉」が一致し、それが「自然的なもの」として感じられるようになったときに、ナショナルな感情を呼び起こす、国民国家としての言語が作り上げられます。


日本においては、明治時代になり、西洋から国民国家という概念を輸入した際に、言語の統一が必要になりました。


国民国家の生成と、それを支えるナショナリズム、そしてその媒介となる「言文一致」の言葉、すなわち「国語」は一体のものなのです。

ナショナリズムのよりどころとなる「国語」

だから、僕らが「日本語」を「国語」として素直に捉えると言うことは、実は「国語」の起源である、国家によって作られたもの、と言う事実を隠蔽し、まるで自然言語のように感じてしまうのです。


そして、その感じるという行為が、ナショナリズムを生み出します。


日本が、朝鮮を侵略したときに「日本語」を強制したのは、日本という「ナショナリズム」という共同幻想に、植民地を加わらせるためでした。創氏改名も同じ意味があります。

ラングと「日本語」

「でもいろいろな日本語があるじゃないか」という声はあると思います。全く同意です。

一般に二人の間にコミュニケーションが生じている場合に、二人の間で交わされる言葉を「ラング」と言います。

ケータイ小説の言葉も、日本文学の言葉も、主婦の会話も、サラリーマンの愚痴も、女子高生のキャピキャピした言葉も、みんなそれぞれ異なりますが、「ラング」です。

そして、こういった「ラング」は、日本語ではありますが、政府が統制している「国語」ではないのです。

ラングは、もっと広い意味での言語です。それは、日本語という括りでは違和感を感じるほど広い言葉をカバーします。

「ラング」という概念を導入することで、「日本語」「国語」「日本文学」「日本人が話している言葉」などの諸概念が、「ラング」というものの下位に属する異なる概念であることがわかります。


みなさんの言っている「日本語」とは、たぶんこの「ラング」のことなんだと思います。

ところが、少し考察すると、広い意味の「ラング」が、いつの間にか公用語の「国語」になったり、「話し言葉」になったり、「日本文学」になったりします。


とくにナショナリズムという、わずか100年ほどの歴史しか持たない感情が、まるで悠久の太古から続いてきた概念であるかのように感じられる際のよりどころとして、作られた「国語」が重要ですから、これらの概念はきっちり分けて考えるべきです。

では、どの「日本語」?

で、最初に戻るんですが、みなさんが守ろうとしている「日本語」とは、いったいどの日本語なのでしょう?


「国語」としての日本語を守ると言うことは、国民国家を守ることに他なら無いことに注意すべきです。


また、

私は日本国と日本語を「デカップル」しておきたいのだ。


誰であっても加われる共同幻想であって欲しいのだ。

言文一致体から始まった日本の「小説」がすでに「日本語」という国民国家イデオロギーを、ひいては「私」という自我を生み出すものであることは、大塚英志氏が多く語っているところです。

単純に「日本文学」だけ守ると言うことは不可能ですし、「日本国」という国民国家と「日本語」を分離することは難しいのではないでしょうか?

そこに、「私」というイデオロギー的主体が立ち上がってしまうのが、「文学」なのですから。



国民国家が今後も続いていくのか、解体していくのかには諸説あります。

たとえば、id:essaさんのエントリ「亡びるのは国語でなくて国民国家では? - アンカテ」はその点を明確に述べられています。なるほどと思いました。




ここまでが、「国家と言語」の問題の整理です。



「日本語を守れ」がナショナリズムに回収されないためには

これまで縷々述べてきたことはきわめて単純で、言語は単なる記号ではなく、共同体の成立に密接に関わっており、また主体の成立とほぼ同義であるということです。

だから、「日本語を守ろう」という主張が、一見のんびりしたものに見えながら、国民国家の再興を目指すあり方に回収されてしまう、ということがあり得るのです。


ナショナリズムに回収されないで、日本語を、日本文学を、自由な文学を守るためにはどうすればいいか。


解決するには、多くの経済学者が支持していると言われる、

負の所得税」を導入するのがよいのではないでしょうか。

これによって、コトリコ氏の言う「ゴロツキ」の経済的自由も拡大し、

文化の土壌を耕しやすくなるのではないでしょうか。

少し論理展開が違いますが、僕もまた、この意見に賛成です*1


経済的な、政治的な問題を解決せずして、ことばの問題は解決できないのです


ことばの問題は、ただ「単なることばの問題」たり得ないのです。

*1:僕の場合は、「負の所得税」ではなく、ベーシックインカムを直接支持しますが