また一人、「表現」のための生け贄が生まれる
なんというか、悲しくなってきてしまった。
いまだに「表現」というものが「神秘」の幕に閉ざされ、それをこじ開けるはずの先生がそれを身も蓋もない形で見せてくれないことに。
「価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習」さん
すごいブクマ数がついていて、どれだけ反響があったかわかります。
前提としての「非対称」な関係
これは、先生と学生の非対称の関係での「先を取る」お話だと思いました。
以前書いたエントリほどではないにしても、自然と、学生と先生の間では非対称な関係が生まれます。
僕は、何となく凍り付いた学生の気持ちがわかります。
その気持ちは、子どもの頃作文を書かせられたときの気持ちに似ている気がしました。
「美」はそのものに宿らない
はっきり言うと、ものの美とか価値は、それを見たり読んだ人間のなかに生まれるものです。
「子どものらくがき」のような絵でも、見る人が見ればそれは美になる。なぜなら、その作品が一定の法則によって秩序づけられた配置を持っているからです。
エントリでは「精神的な背骨」という謎めいた言葉を使っているけれど、それは、ぶっちゃけて言えば配置のストックをどのくらいもっているか、ということに尽きます。
先生が言いたいのは、学生さんが見るべきは、学生さん自身の内面などではなく、作品それ自体だ、というそれだけのことです。
しかし、すでに非対称な関係に支配されているために、先生が何を言っても生徒は自分の内面をのぞき込んで答えを見つけ出そうとしてしまいます。
作品に「美」を与えるのは、鑑賞者です。オブジェクトとその配置から、鑑賞者が美を読み解くのです。それだけの話なんです。
「美」は習得可能
だから、学生さんがすべきことは「精神的な背骨」という謎めいた言葉に再びとらわれて内面を修練することなどではなく、「美しいと一般的に捉えられるオブジェクトとその配置はどのようなものか」を一つ一つ習得していくことです。
ここでいう「段階的なツール」というのは、美を構成するためのtips集です。
美や表現といったとらえどころのないものは、なんとなく表現者に宿るものかというと、その大部分は実はいくつかの行程を経ることで身につけることが出来ます。
大塚英志さんのメルクマール的な著作
では、小説を具体的な訓練を通して書く、という、美を訓練を通して習得する試みを行っています。このように、「美」は天才的な感性の持ち主だけではなく、ある程度までは一般的な人間でも効果的な訓練によって習得可能なのです。
「美」の謎にとらわれないで
学生さんが、「表現」に感じた「謎」や「神秘」が、実は鑑賞者である学生さん内部に起きている出来事であって、「表現」そのものには宿っていないことを理解されることを、僕は願ってやみません。
この手の挿話が、「表現」の神秘性に花を添えるための生け贄にされないことを、願ってやみません。
表現などは、型の積み重ねから作り出すことは出来るのです。
貨幣の神秘性
蛇足ですが、こういった「謎」や「神秘」の形態の代表が「貨幣」の物神性です。
内面は作るもの - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
「本質」は現象そのものだ。
貨幣の「本質」は何か。それが金属だったり紙だったりすることではない。それが「交換される」ことが本質だ。交換されることで、金属は「貨幣」という商品になる(資本論はここがわかればそれほど難しくない)。
つまり、「運動」が介在している。
「内面」の本質は、「どこかにある本当の自分」などではなく、他人との関係において−つまり運動によって−表れたものだ。
貨幣は、とどまっている限り、ただの紙か金属です。
それが交換されることで、「貨幣」となります。逆に言えば、交換する人間同士の関係が、交換を可能にしているのです。
貨幣の「謎」は、貨幣そのものにはなく、貨幣が人間同士のどのような関係を担っているかによって決まってきます。