reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「消費」するためには、消費財を「等価交換」してこないといけない

「わたしたちが作ったものをあなたは買うべきだ」はマーケティングの真逆 - 「君たちは決して呪いから出ることはできない。僕がそうであるように、箱の中の君たちが何かを得ることなどない。この世界に何も残さず、ただ消えるんだ。塵一つ残せないのさ。君たちは絶対に幸せになんかなれない」と関連するエントリ。

元記事への小気味よい反論。

……でも、やっぱり「消費」の質は大量消費時代と異なっていると思うんですよ。

なので、鈴木謙介さんの「わたしたち消費」を一つの考察として取り上げました。

元記事の、別の視点からの考察。


今たばこを吸っている人は、ほとんどが他の大人が「かっこよく」たばこを吸っているのを見て、吸い始めたんだと思います。

今たばこを吸いはじめる人が減ったのは多分、そういう姿を見る機会が減ったことと、「たばこは悪いもの」というイメージが一般的になったからでしょうね。

かつて、消費がかっこよかった時代があって、そういう「スタイル」を身につけたくて、消費をはじめたのではないかなぁ、と思います。


で、この話って、この本

に直接結びついてくるんですね。

冒頭、はした金で娘を売春宿に売り払って、その金でテレビと冷蔵庫を買う親の姿が描かれます。

山岳地帯で電波がほとんど入らず、目を細めてもほとんど像を結ばないテレビであっても、彼らにとっては「誇り」であるのです。

それこそ、娘を売春宿に売り払う価値はあると感じているのです。


「贅沢」へのあこがれ。

それは反転して、自分の大切なものを「等価交換」に結びつけることになります。

買いたいから、「手持ち」のものを売るわけです。


貧しさと「貧困」は質が違うものです。

貧しさそのものは、困らない。困ってしまうのは、なぜか?

貧しさが「貧困」に変わるのは、「贅沢」への憧憬から、それを手に入れるために「等価交換」の輪=資本主義経済への参入を行うことがきっかけで起きる、と思います。

欲しいなら、自分の大切なものも差し出さないといけないのですから。