reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

美でない善は難しい

人は「美しいもの」は「善なる属性」も持っていると感じる。


見目麗しい相手には親切にしたくなる。愛くるしいものには優しく接したくなる。

これは直接的な生理的快楽だろう。


一方、醜いものは排除したくなる。そしてその理由を、「悪」に求める。

「気持よさを感じるもの」は「美しいもの」である

しかし、一般的に「醜いもの」に対して温情をかける行為は、「心地良い」。

直接的には生理的嫌悪感を感じても、行為に感じる快楽がそれを上回れば、間接的には快楽となる。


人はこの「心地良さ」から、「醜いもの」に「美」を感じる。


「醜いもの」から直接感じる生理的嫌悪感を上回る「心地良さ」を感じるため、そこに「美」を感じる。


それ故、「『醜いもの』に温情をかけている」とき、「醜いもの」に「善なる属性」を感じる。


しかし、時間が経つと人は「飽きる」


自然に、「醜いもの」に「美」を感じなくなる。


そしてそれに、「悪の属性」を感じるようになる。

「悪」とは、自由意志の産物である

「悪」とはなにか。属性である。どのような属性か。


それは、「愚かである」とか「醜い」という、「美」に相対するものではない。


それが本人の意思にかかわらず最初から付帯している属性なら、それは本人の責任ではない。


本人に責任のないものを、「悪」として問えない。


「悪」とは、自由な選択により、自らの意志で「悪」の決定をしたものの属性である。


「自由な選択」がなければ、「悪」も存在しない。


しかしそれは、「神話」に属する。「悪人」が自由選択した過去というものは、実際には存在しない


「彼は正しい方を選ばなかった」から、悪であり、悪人としての責任をもつのだけれど、そのような過去は、実際には存在しない

「美」が「善」と混同される

人は、「心地良さ」を感じ無いものに「善なる属性」を感じない。


しかし、「善」とは倫理である。感覚を超えたものであり、規範である。


けれど、人は「美」を「善」と取り違え、その感覚のままに、相手を「善」「悪」として裁く。


「醜いものを排除する行為」は「悪」である。が、「悪を排除する行為」は「善」である。


だから、人は自らの行為を正当化するために、「醜いから排除した」とは言わず、「悪だから排除した」と言う


「悪」であるためには、そのものが「自由選択をした」という神話が必要である。


だから人は、「彼は自由意志で今の境遇に陥ったのだ」という暗黙の了解を前提する。


「自由な選択によって『正しい方を選ばなかった』のだから、自己責任だ」と。

「美しさを感じないもの」に「善なる属性」を与えることは難しい

「醜いものを排除する行為」は、倫理的に悪である。みんな知っている。


でも、多くの人は、「『醜いものを排除する行為』をやめることが心地良い」から、いいかえると、そこに「美」を感じるから、「善なる属性」を与える。

間接的に感じる「生理的快楽」を「善」とすり替えている。


直接的にも間接的にも「生理的快楽」を感じないものを、なお排除しないことが「倫理的な善」である。


しかし、こんなことを出来る人はほとんどいない。倫理的な要請を実践できる、成熟した人は殆どいない。

それは「感覚を超えたもの」だからだ。「感動なき倫理的要請に応えること」はとても難しい。

「直接的な生理的感覚」と「間接的な生理的感覚」であらそう人々

議論は「善悪」で語られるが、実際には「直接的・間接的な生理的感覚」で論じられているものが多い。


「それは弱者に対する抑圧だ」「いや、彼らには自己責任がある」「彼らは無力だった」「自らの力を行使しないで他人に頼るのはおかしくないか」……といった議論が、繰り返し起こる。


ほとんどの場合、それは倫理とはなんの関係もない。

そこで語られる「悪」は、「時間的には存在しなかった場面での自由な選択の誤り」であり、「神話」である。その源泉は「生理的嫌悪感」にすぎない。