愚かさは罪なのか
今日「話題の記事」に上がっていた
「システムが無くなった日」
というエントリを読んで、思うところがあったので書きます。
このエントリの結論は、
「一人の工場長の愚かな判断が、多くの人を過労死させ、自殺に追い込み、システムそのものをも失わせた。たった一人の判断が、このような悲劇を生むこともあるのだ」
というものでした。
この結論には同意します。
しかし、私は「愚かな側」に立ち、状況を何ら改善することができなかった過去があるため、複雑な心境になりました。
少し迂回して、書かせていただきます。
人はどんな時に残虐になれるか
「アイヒマン実験」という、人はどういうときに屈従するのかについて行われた実験があります。
人は、
「自分は役割に従っているだけ」
「自分は大義の道具に過ぎない」
と思うと、どんな過激なことでも出来る
、ということが、ここから導きだされる一つの結論でした。
「アイヒマン実験」の名前の由来は、ナチスドイツでユダヤ人の大量虐殺の指揮を取ったルドルフ=アイヒマンという人物から来ています。
彼は、実直に任務をこなす、生真面目な性格の人間でした。
第二次大戦後、行われた軍事裁判で、彼が出廷したとき、多くの人はみな驚きました。
悪魔のような人間を予想していたのに、まったくそうではない、線の細い官僚が出てきたからです。
彼の妻は、「家庭では良き夫だった」と証言しています。
しかし彼は数百万のユダヤ人を虐殺しました。
そのことを、かれは理解していました。
そして、虐殺によって快楽よりも苦痛を感じていました。
彼ははっきりと、自分たちの行為が犠牲者に屈辱と苦痛と死を与えていることを自覚していました。
しかし彼は、こう考えてその窮状を抜け出しました。
「自分は人びとに対してなんと恐ろしいことをしてしまったのか!」と言う代わりに、殺害者たちはこう言うことができたのだ−自分は職務遂行の過程でなんとういう恐ろしいことを見なければならなかったことか。その任務はなんと重く私にのしかかってきたことか。
(「エルサレムのアイヒマン」ハンナ・アーレント)
自分たちの行為は汚く、呪われた仕事だ。
しかし、だからこそ誰かがやらねばならないのだ。
国家のために。
教義のために。
私は国家の道具に過ぎない。
むしろ苦しいのは私の方だ。
任務遂行のために、手を汚し、人びとの苦痛に歪んだ顔を見なければならず、罪を重ねなければならなかったのだから。
とてもとてもつらいことだったのだ。
これは現代の原理主義にも当てはまる考え方です。
「神が認めたのだから、私の行為は全て正しいのだ」と考えて、テロは行われます。
もしくは複合的に、
「神の認めた行為だから、正しいのだ、どんなに残虐で、無残で、恐ろしい行為であっても。
そして、私は神の僕なのだから、正しいことを行うのだ。つらく、苦しくとも。」
と。
これはむしろ、戦前の日本の考え方に通じるものかもしれません。
人が最もサディスティックに振舞うとき
ルドフル=アイヒマンの行為が、また、アイヒマン実験がしめしているように、人は「誰かから命令されたから」「正しいことをするためだから」「私はその道具に過ぎず、むしろ苦痛を受けているのは私なのだ」と考えることで、残虐な行為を行うこともできます。
これは、サディスティックな行為に当てはまるものです。
サディストは、あらゆる自由が許されている環境では、サディスティックには振る舞えません。
彼の心にインストールされている「倫理」が、それを押しとどめるからです。
サディストがもっともサディスティックな行為を行えるのは、「私以外の誰かのために行動する」ときです。
誰かの教え、誰かの言葉、誰かの教義などのために、「しょうがなく」行動するとき、人は自分の持っているサディスティックな創造性を存分に発揮します。
サディストはその行為に吐き気を覚えながら、「しかたなく」それを行ないます。
重要なのは、サディストは、その行為が通常の社会では「禁止」されていることを十分に理解していることです。
サディズムの快楽の根源は、「禁止されていることをする」ことなのです。
サディズムの例として、内藤朝雄さんは、第二次世界大戦中の日本についての新聞投書をひいています。
「昨日までニコニコしていたおじさんが、防火訓練だと言って、体の弱い母になんども水を汲みに行かせ、母はそれが元で亡くなった。割と良い暮らしをしていた私たちにターゲットが向いたようだ」
「おじさん」も、加害者と同時に被害者であり、自らのサディスティックな欲望を存分に発揮したのでしょう。
たった一人の暴走を止められない組織
「システムが無くなった日」というエントリを読んで、わたしが思ったのは、「たった一人の愚かな判断が、なぜ組織そのものを壊したのか」ということでした。
- 工場長の愚かな判断を止める人間がいなかったのか?
- 工場長の愚かな判断を実行に移さない人間がいなかったのか?
- だれかがそのとおり実行したからこそ、愚かな行為は進んでいったのではないのか?
- 経営判断だから、口出しはできなかったのか?
そして、こういう事もできるでしょう。
と。
現場の人間の責任も問われるべきではないか、と。
止められる場面はあったのではないか、と。
しかし、たぶん無理だったのでしょう。
現場の人間は、「システムの道具」だったのでしょう。
ひとりひとりはそのことに違和感を覚え、また、工場長の決定に不安を感じながらも、「仕事」を行わざるを得なかったのでしょう。
愚かな判断が、多くの人命を奪い、また希望を失わせ、心と体に深い傷を負わせた。
その判断の具体的執行者である従業員たちは、同時に被害者でした。
だから、その苦痛を知っていました。
その間、「暗黙的なサボタージュ」などの抵抗があったのかもしれません。
けれど、結果だけ見れば、アイヒマンの裁判に照らせば、
「彼らにも罪があり、償わせるべきだ」
という意見が出てきてもおかしくはない。
弱い人間は罪人なのか?
でも、人間ってそんなに強いものなのでしょうか?
組織がどうしようも無い方向に暴走していくときに、「反対」を唱えて猪突猛進に進む人もいるでしょう。
この人の抵抗は英雄的かもしれませんが、この工場では単に失職を意味するでしょうし、それでは本人の倫理が守られるだけになります。
また、語られていませんが、先に述べたように、こういう状況で、最高にサディスティックな欲望を吐き出した人もいたのでしょう。
他の人達は、その人たちに殺されないだけで精一杯だったのかもしれません。
「組織の愚かな暴走を止めるようにうまく介入するのが、頭を使うってことだろう。首の上のものは飾りかい?」と言われるかもしれません。
うまく立ち回れなかった人は、ある人は被害者になり、ある人は加害者になったのでしょう。
もしくは、どちらも体験したのでしょう。
この人達は、「裁かれる」べきでしょうか?
私も愚かな罪人です
私がこんなことをいうのは、糾弾できる立場になどいないからです。
以前こういうエントリを書きました。
これ、実際に書いたのは2009年の初頭なんですが、いろいろびびって消しました。
でも復活させました。
このエントリに書いたとおり、わたしもまた罪人ですし、罪を重ねるにつれて、どんどんと感覚が鈍ってきました。
会社の掲げる理念と、具体的な現実とのギャップを埋めることができず、どうしようもなくなりました。
わたしたちも、「裁かれる」のでしょうか?
どんな組織でも、理念と現実のギャップがあるようです。
ある人は、それを「仕事のことだから」と整理して、仕事と私生活を分けて考えているようです。
すごく少ない人は、職場そのものを変えてしまいます。
頭の良い人は、自分の見える範囲内での、ゆるやかな秩序を保とうと、臨機応変に立ち回ります。
そして多くの人は、ワケも分からないままに仕事漬けになります。
まるで子どものような反逆をし、現状を変えないまま。
私のように。
私は会社にいるとき、根回しとか、広く浅く人間関係を築くことが苦手でした。
そのため、職場内で大きな決定を、それも誤った決定をしたとき、抵抗することができませんでした。
数は力です。数を集められない自分は無力でした。
ワケも分からないままに「仕事」をし、その「仕事」が同僚や関係業者を苦しめ、結局納品に間に合わずお客さんにも迷惑を掛けるとき、わたしたちは
のでしょうか。
愚かだという罪で。
私にはよくわかりません。
私は愚かです。無力です。だから罪深い。それは感じています。
みなさんはどう思いますか?
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