reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「『劣悪』な文化」の導入は人々を「アホ」にするのか?

歴史の先例を見よう。

図書館こそ、印刷業界を脅かすものとして現れながら、結局はそれを大きく成長させたという意味でイノベーションの好例といえる。
18世紀当時、本を買えるのは富裕層に限られていた。1冊の本の価格は、平均的労働者の週給にほぼ等しいほど高価だった。本の価格が高かった「からこそ」、庶民は読み書きの勉強に投資をすることも出来なかったし、またその必要もなかった。19世紀の初頭では、イングランド全土で日常的に本を読んでいるのはわずか8万人にすぎなかった
大きな転機は1741年の『パメラ(Pamela)』の出版がもたらした。お決まりの退屈な学術論文と違い、若い女性がたどる人生のきわどくおもしろい物語に大衆は魅せられた。その後『パメラ』の成功を模倣するものが大勢現れ、まったく新しいジャンルが誕生した。イギリス小説である。『パメラ』は「モル・フランダース」を生み、そして「モル」は「トム・ジョーンズ」とうように展開していった。これらの(新)古典小説はサミュエル・コーリッジ(Samuel Coleridge)のような知識人から次のような非難を浴びた。
「これらの(小説)にのめり込んだ連中に関して言えば、『読書』という言葉を使って連中の『時間つぶし』『暇つぶし』を誉めるなどという気はさらさらない。むしろそれを、ある種束の間の白昼夢と呼ぼう。その間夢見る人間の心の空白を埋めるものは、怠惰と取るに足りない感傷的な感情以外には何も無いのだ」
まるでテレビを見るのが悪いと言っているのと同じように聞こえるのだが、どうだろう。
しかし大衆は、批評家などほとんど相手にしなかった。これらの俗っぽい物語を飽くことなく求め続けた。イングランドの書店では小説や恋愛物の需要に追いつくことが出来ず、それらの本の貸し出しを始めた。これは大衆の間では貸し出し図書館と呼ばれていたが、教養ある階級からは”文学を売るゴミのような店”として批判された。それ以上に、出版社と書店からはまったく異なった理由で非難を浴びせられた。つまり、貸し出し図書館が両者の事業を衰退させるのではないかと恐れられていたのである。
「貸し出し図書館が最初に開設された時、販売店は非常に強い警戒心を抱いた。さらにその急激な成長が恐怖心をあおり、この種の図書館が本の販売を衰退させると考えてしまった」(出典/Knight, The Old Printer and the Modern Press)
ところが長期的な視点で見れば、貸し出し図書館は出版業界に大きな利益をもたらした。そのことに疑問の余地はない。安上がりの娯楽が身近にあることで、多くの人が読み方を身につけたいという気持ちになった。『過去の印刷器と現代の印刷機』(The Old Printer and the Modern Press)の著者、チャールス・ナイト(Charles Knight)によれば、1800年の8万人の読者が、1850年には500万人以上に達していた。新しく出現した本のマスマーケットに進出した出版社は繁栄し、エリートだけを相手にしていた出版社は消滅した。市場が成長するに従い、本は借りるものから買うものに変わり始めた。先の引用を続けると「しかし、経験を重ねることで本の販売は貸し出し図書館によって衰退するどころか、大いに刺激されていることがはっきりしてきた。というのは、それらの書棚から何千もの家庭に安く本が貸し出され、それによって読書の楽しみが大衆化し、最初はこれらの図書館から借りていた人たちが、読書を重ねることでそのおもしろみを認識して本を買うようになり、何千もの本が毎年売れるようになった」
この因果律を見てみよう。旧来の出版のモデルを押しつぶしたのは貸し出し図書館だが、同時にマスマーケット向けの本という新しいビジネスモデルも生み出したのだ。事業としての貸し出し図書館は1950年代までは順調に生き延びていた。しかし、その息の根を止めたのは読書への興味の欠如ではなく、大衆に文学を届けるさらに安い手段、ペーパーバックの出現だった。
(「ネットワーク経済の法則」(p171-173)より引用。強調は引用者による)


エロへの飽くなき欲望がPCをお父さんに買わせたようにね!

文化が大衆化するためのインフラ

「読書」を楽しむにしても、まず「識字」が可能でなければならない。

次に、「紙」が安くなければならないが、その価格を破壊的に押し下げるのは「大量の消費」である。

さらに「印刷」も、一定の水準以上に生産されることがはっきりすれば、価格は破壊的に押し下がる。

そして、それを届ける「流通(ロジスティクス)」。常に一定以上の流通が生まれなければ、そのインフラも維持できない。


それらのインフラの成長と絡み合って、「おもしろい」本を読みたいという欲望が識字を加速させ、ある時点でそれは、それまでとは装いを変えたあたらしい「常識」となる。

その「常識」以後は、単なる「時間つぶし」であり下賎な欲望を満たすものが、「価値あるもの」として捉えられる。


それは、その「常識」が事実を変えたと言うより、それまで「下賎」だと嘲られていたその文化がもともと内包していた「価値あるもの」に光が当てられたから、と言える。

そして、その「価値あるもの」(この場合は文学作品)も、上記のインフラの発展と維持があってはじめて存在できる。



日本で娯楽の王者として「読書」が君臨したのは1960年代らしいです。

小熊 日本の歴史でいえば、昔は、物書きはいい商売だったんです。原稿料も戦前はすごく高かった。たぶん400字で3万円くらいだと思います。岩波新書一冊出せば家が建つといわれた時代ですから。

それに、1960年代は出版市場が急膨張したので、作家専業でも食べていけたんです。私は『1968』で、1968年に行われた、過去三ヶ月で経験したレジャーおよび趣味をあげてくださいという調査を引用しました。1位は読書だったんです。ちなみに、2位は国内一泊旅行。3位は手芸・裁縫。4位は自宅での飲酒。5位が映画・演劇です。

もちろん読書が趣味といっても、そんな高尚なものを読んでいたわけではないでしょう。小説を読むとか、週刊誌を読むとかだったと思います。それでも本は売れたし、小説も売れた。新築の家を買ったら平凡社の百科事典を本棚に入れるという時代だった。だけど今は、純文学の作家は大学の人文系の先生になって生計を立てている人が多い。ライトノベルの世界とかはかなりよくない労働条件のようです。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1884961.html

「書く側」の事情

蛇足だけれど、ビジネスの中で「下賤」は、相手との価格交渉に使える言葉なので、「下賤だから印税8%で、イラストの方と折半ね」と言うふうにも使えますよね。

小熊 単純に計算すればわかります。たとえば600円のライトノベルの本を書き下ろし、挿し絵の人と分け合いだから印税率5パーセントとすれば、一冊30 円ですから1万部売れても30万円にしかならない。年間10冊以上書かないと生活が成り立たないでしょう。だから掛け持ちでバイトをやって書いているという人も多いと聞いています。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1884961.html

学問がかった本を、ちょっとポップな味付けにして売って食べていこうというモデルは、バブル期だけ一時的に成立するかに見えただけで、今やるのは時代錯誤だと思います。今では数が売れない新書なんか出しても、著者に入るのは30万円くらいにしかなりません。出版界のマックジョブです。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1884961.html


「インフラ」としての出版流通に関しては「ライトノベル発行点数を調べてみたら、電撃がやはりヤバイ件について - 積読バベルのふもとから」様のまとめられた資料が参考になります。