「科学的」とはどういうことか
客観性の4要素
「客観性」とは、以下の4要素を指します。
- 制御された平穏で予測可能な環境の中で、再現可能な結果が意のままに生み出されること=「実験室(ラボラトリ)」
- 実験室で導きだれた法則は、同じ環境であれば宇宙のどこでも、100万年前も1万年後も変わらない。言い換えると、時空を超えてどこでも成り立つ。
- 1,2の特徴があるので、基本的に「論争」ではなく、「正しい」とされた業績は、科学者の共同体全体から「事実」として受け入れられる。「論より証拠」。
- 実験室で導き出された法則を正しく見定める科学者の共同体を、大衆は受け入れているので、3で現れた「業績」は広く世間に受け入れられる。
(「知はいかにして「再発明」されたか」第6章冒頭より、筆者まとめ)
これは「実験科学」における「客観性」を指していますが、一般的に使われる「客観性」も、だいたいこのような意味で使っていると思われます。
概念には誕生日がある
重要なのは、上記の概念には明確な日付が存在する、ということです。
実験室という安定した環境は1700年代中盤に生まれ、その成果が1800年代中盤から確立します。
肥料とか医薬品とか化学染料とか。*1
その前に「科学的」という言葉があったとして、今僕らが使っている「科学的」とはだいぶ違う使い方をしていたんだと推測できます。
「科学的」とはなにか
僕らが「科学的」と言ったり、「科学は死んだ」と言われている「科学」って、この4つ目の要素を指していると思われます。
つまり、「結果として世間が受け入れ、それが制度化した」こと。
正しいから受け入れる、と言うよりは、「正しいと判断してくれる集団」を受け入れ、組織化され制度化された、ということ*2。
だから、「正しいと判断してくれる集団」への「信頼」が崩れると、他に信頼出来るものが必要となるんですが、それが何になるのかは、結果としてしかわからない、みたいです。
「洗脳」≒「信頼」が揺らぐ時代
岡田斗司夫さんは、「洗脳社会」であるのは、これまでもそうだったし、これからもそうと言っています。
というのは、「洗脳」(とか「評価」)とは、「何を信頼するのかの基準」の問題なので。
上記を踏まえると、多分そうなんだろうなぁ、とは思います。
「安心」「信頼」をつくるものとしてのメディア
3.11のあと、実家で「安心」が戻ったのって、テレビが普通の「ゴールデンタイム向けバラエティ」を従来通り流し始めてからでした。
「そんなくだらないものは見てないよ」という方も、なにか「普段通り」のことに戻った時に「安心」が戻ったのかもしれないです。
ただ、問題なのは、その「普段通り」ってのが、実際には「一時的な、作られた」ものだってことを、忘れ切れなくなってしまったということなのかもしれないですね。
「信頼」って、普段意識しないで済むことを指すのでしょうから。
→「知はいかにして「再発明」されたか」についてのきちんとした書評