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誰が誰を「寛容」に扱うのか?

「寛容性ゼロ」は素敵な社会か?=赤木智弘的視点(第49回)


エントリ自体は全く同意です。


だが、そもそも「『寛容』かどうか自体」が妥当かどうか、考える必要があると思う。


「寛容」とは、まず第一に、本質的な問題解決の放棄であり、その代用品である。

こんにち、これほど多くの問題が、不平等、搾取、不公平の問題としてではなく、不寛容の問題として理解されているのは、なぜなのか。解決策として提案されるのが、隷属状態からの開放、政治闘争、武装闘争ではなく、寛容であるのは、なぜなのか。直接の答えは、……福祉国家や様々な社会主義プロジェクトのような直接的な政治的解決策の後退、失敗である。寛容とは、そうした解決策のポスト政治的な代用品である。

スラヴォイ・ジジェク「暴力」p174)


しかし「寛容」は、それ以上のものだ。


それは、「明文化された法」を背後から支え、実質的に機能させるために、法システムに、いわば裏から組み込まれている。

全体主義体制の戦略の一つは、文字通り解釈すればだれもが罪びとになるほど厳しい法的規制(刑法)を導入することである。しかし、この規制が完全な形で施行されることはない。これによって体制は、みずからを慈悲深くみせることができる。「知ってのとおり、われわれがその気になれば、きみたち全員を逮捕し、有罪にできる。でも、怖がることはない。われわれは寛大なのだ……」。と同時に、体制はその臣民に対して永続的に脅しをかける。懲らしめてやるぞ、と。「あまりいい気になるな。いいか、われわれはいつでも準備ができているのだ……」。
……
ここにあるのは、すべての行為の潜在的な有罪性(われわれがしていることは、なんであれ犯罪であるかもしれない)と慈悲(われわれが平和に暮らせるという事実は、我々が潔白であることの証拠あるいはその結果ではなく、権力者たちの慈悲と善意の証拠、彼らが「世情の理解者」であることの証拠である)との重なり合いである。このことは、全体主義体制が本質的に慈悲の体制であることを示すさらなる証拠となる。全体主義体制は違法行為に対して寛容である。というのも、その体制がつくり上げる社会生活において、違法行為、わいろ、詐欺は、この生活を生き抜くための条件だからである。
(同p195-196)


明示された法が完全に施行されることなどほとんどありえない。

全員を捕まえることになるからだ。


そのことを誰もが知っており、それにしたがって日常生活を送るには、「寛容」という「お目こぼし」が必要だ。


だから「寛容」は、明示された法とともに法システムに、権力者の「慈悲と善意の証拠」として織り込まれている。


この、「寛容」を含めた、明文化された法を影で支える「暗黙の不文律」は、「慣習」と呼ばれる

社会が壊れるときには、この「慣習」に混乱が生じる

ロシアはエリツィン体制下のポスト・ソヴィエト時代にカオスと化したが、その問題もこのレベルで考えることができる。法的規定は周知され、内容もソ連時代と大差なかったが、崩壊してしまったものがあった。それは、社会構造全体を支えていた、暗黙の不文律の複雑な体系である。ソ連において、もっともよい治療が受けたいとき、新しいアパートに住みたいとき、当局に文句があるとき、裁判所に呼ばれたとき、子供をよい学校に入れたいとき、工場長が契約者である役人に原材料を期日までに届けて欲しいとき……実際になにをしなければならないか、ソ連時代にはみんな分かっていた。だれに話を通すべきか、だれにわいろをわたすべきか、なにができて、なにができないか、みんな分かっていたのである。

ソヴィエト体制崩壊後、一般民衆の日常生活における最大の不満の一つは、これらの不文律が不鮮明になったことであった。……そんなとき、組織犯罪の果たした役割のひとつが、ある種の、法の代わりとなることであった。たとえば、われわれが小さな商売をしていて、金を払わない客がいるとしよう。われわれは、マフィアの用心棒のところにいって、問題を解決してもらうのである。というのも、国家の法では埒が明かないからだ。プーチン政権下の安定とは、つまるところ、この不文律を、わかりやすく新たに作ったことにほかならない。

……これとよく似たことは、われわれの日常的な慣習の中にもないだろうか。日本では、労働者は40日の有給休暇を与えられる。だが、それを全部消化することは期待されていない。半分だけ使うのが暗黙の了解である。
(同p196-198)

しかし、ここは日本である。


絶対的な独裁者が牛耳る社会でも、マフィアが仲介をする社会でも、建前上は、無い。


ならば、暗黙の不文律として、権力者の「慈悲と善意の証拠」を織り込む必然性が、ない


だとしたら、同じ市民を摘発することで一体誰が特をするのか?


本文では、「市民による通報により、当局が厳重に処分を下した」とある。


では、「市民が通報し、当局が処分を下す」ことは、一体誰の特になるのか?


百歩譲って、大阪市職員は、あたかも「少権力者」のように振舞っているから、告発したのだ、という言葉を認めるとしよう。

ならば、元エントリで書かれている通り、ある意味その権力の頂点に立つ、橋本市長が「お目こぼし」を受けるのはなぜだろうか?


こたえは、「誰かに厳重な処分がくだされる、その事自体が結果であり目的である」ということだ。

2005年の秋にフランスで起きたパリ郊外の暴動では……暴動の背後になんの政治的プログラムも存在しなかったという事実、ここでは、この事実自体を解釈しなければならない。……唯一の選択が、規定どおりにやるか、それとも(自己)破壊的暴力か、という選択であるとき、われわれの持つあの名高い選択の自由はなんの役に立つのか。抗議者たちの暴力は、ほぼ例外なく、自分たちの財産に向けられていた。燃やされた車、放火された学校は、近隣に住む金持ちの車や学校ではなかった。それらはまさに、抗議者たちの帰属する階級のひとたちが苦労して手に入れたものだった。

……ひとによってもっとも受け入れがたいのは、この暴動の無意味さである。それは、抵抗の一形態というより……アクティングアウト−つまり、ことばにも思考にも翻訳できない、耐え難いフラストレーションの重圧をともなった、行為に向かう衝動−である。これが物語っているのは、暴れた者たちの無力さだけではなく、それ以上に、彼らは文化アナリスト、フレデリック・ジェイムソンのいう「認知地図」をもっていない、自分の状況を意味ある全体性のなかに位置づけられない、ということである。

……このようにパリ暴動は、いかなるたぐいの社会的・経済的抗議にも、ましてやイスラム原理主義の肯定にも、もとづいていなかった。モスクは、最初に焼き討ちされる場所のひとつであった。だからムスリムの宗教団体は、すぐに暴動を非難したのである。暴動はたんに、可視性を得るための努力であった。自分たちはフランスの一部であり、フランス市民の構成員でありながら、政治的、社会的空間から締め出されていると考えた社会集団は、みずからの存在を一般公衆に感じ取らせたかったのである。……おまえたちがいかに知らんふりをしようと、われわれは否応なしにここにいるのだ、と。

(同 p98-100)


「告発」は、結局のところ社会の息苦しさをもたらす。


それなのに、それでも行われる、その理由は、自分たちが社会的に認められていないから、その意思表示をするのだということだ。

表向きは「規律のため」と言いつつ、「市民」は、「腐った公務員」を罰することで、罰することの快楽を得、自分たちの力を再確認するのだ。


だとすれば、これは単に自滅の道だろう。

隣人の車を燃やし、地域にある学校の校舎を叩き壊すようなものだろう。


けれども、「目的それ自体が行動」であるような行動は、残念ながら止まらないだろう。


なぜなら、「寛容」が求められる社会とは、まず第一に、本質的な問題解決の放棄であり、その代用品であるから、人々の行動の目的は常に「何かを変えるため」ではなく、「行動自体」なのだ。


それゆえ、「取り締まり」はその行為になんの効力も果たさないどころか、彼らの行動を公式に認め広めるためのメディアになってしまう。


そして、自らの存在を示すためだけの、それ以外に目的のない行動は、本質的な問題解決のプログラムから目をそらし続ける限り、これからもどんどん増えるであろう。


暴力 6つの斜めからの省察

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