reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「寛容」に潜む暴力

私がかつて勤めていた職場で、「お局」が同僚の女性のロッカーの中身を、本人が不在の際、床にぶちまける、という出来事があった。


仕事上必要な資料が見つからない。

しかし、ロッカーの持ち主の女性は定時に帰社していた。

だから、「中身改め」とあいなったわけだ。


「お局」いわく、

「ロッカーの中に私物はないはずだから、見られて困るものなんか無いはずだ。」

であった。


その時のサディスティックな笑い顔を、私は今も覚えている。


以前から、定時あがりする同僚女性に、「さっさと帰りすぎなのよ!」とブチ切れていた。

その鬱憤を晴らしたからだろう。


中身をぶちまけて、洗いざらいひっくり返した。

もちろん書類などなかった。

ぶちまけたことですっきりしたのか、「無いみたいね。勘違いみたい」と彼女はのたまった。


「あんたたち、やっときなさいよ」と、職場の若い人間に片付けをさせて、本人は悠々と自席に戻りおしゃべりをしていた。


けっきょくのところ、彼女は、やりたかったのだ。

ロッカーの中身をぶちまけることを。


ただただ単純に、定時に帰社していた小憎らしい同僚のロッカーを、めちゃくちゃにしてやりたかったのだ。


そして寛容にもお局は、資料がなくなった罪を赦しなかったことにしてあげることにした。


つまり、なかったこと、にしたのだ。


お局のやったことは、「職場に不要なもの−もちろんプライベートなもの−など持ち込んでいるはずがないししてはならない」という「法」を厳格に守ろうとした、誠に正しい行動であった。


そしてアイヒマンのように、彼女の行動は醜悪にも「プライベート」をぶちまけた。


最後に、「法を免除する」という方法でお局は赦した。


彼女の行動が醜悪なのは、自らを抑圧している上司や職場やそのような問題そのものに向かい合うのではなく、同僚女性という、自身と同じ立場にある人間を攻撃し、鬱憤を晴らしたことだろう。


こんなふうに、「監視の目」は、「大きな権力」ではなく、「お隣さんの監視」という形で現れる。


さて、以上の出来事と、この記事
「寛容性ゼロ」は素敵な社会か?=赤木智弘的視点(第49回)
で書かれている内容は、どこが異なるだろう?


問題は「法」を守らなかったことだろうか?

誰一人守ることのできない「法」を?

逆に言えば、だれでも告発可能なほど厳しい「法」を?


この「法」は、だから、つねに「赦し」とセットになっている。

「赦し」という不文律の法があってはじめてなりたつのだ。


大阪市職員が喫茶店に10分とどまるのは許せない。

しかし橋下市長が勤務時間中に抜け出すことには、みな寛容であり、寛容でなければならない


寛容さそれ自体が、ひとつの暴力なのだ。