「国境の南、太陽の西」−村上春樹の孤独とタフさ
読んでいて胸がつぶれる。ひどく切ない気分になる。この本が新刊で出た頃読んだらただのオッサンの性的欲求不満の赤裸々な告白としか読めなかっただろう。少なくともグロテスクにしか感じなかったと思う。今はその切なさが胸を刺す。それだけ僕も年を取った。何もしなくても時間は過ぎ去るものだ。
心を通い合わせられる相手というのはごくわずかだ。なぜなら、ある一定の時期を共に過ごし同じ感性を持つことの出来た相手というものはとても少ないからだ。人間は既製品ではない。そして、心を通い合わせる事が出来なければ、対話というものは成り立たない。どんなに誠意があっても、誠実に耳を傾けても、対話が成り立たないことは多くある。
心が通い合う相手と話をしているときは、交わし合う「メッセージ」以上のものを交わしあっている。多くの場合、対話の最後の結論めいたものがこれまで自分が切望していた言葉だった場合、その相手を通じて自分の中にあった言葉を取り出すことが出来たと考えがちだがそれは違う。その言葉は対話の前にはなかった。対話を通じて作られたものだ。それは共同作業だ。
そんな対話を行える相手を「親友」とか「恋人」とか「師」とか呼ぶ。「エロス」が介在する関係。
そんな人との関係は、事後的に、遡及的に「運命」として感じられるけれど、その接触は全て「偶然」だ。だから運命の相手と出会ったときにその関係を維持できるだけ成熟していなければ関係を壊すことが多い。
ある時期ある場面を共有できた、稀な「他者」は、代替物を獲得できない唯一のものだ。それを喪失して、それに替わるものを得ることが出来ない、そういう人に出会うことがある。
「成熟」する前に運命の相手との邂逅を果たし、その相手を失ってなお人生を空虚と知りつつ「成熟」して生き続けることは出来るのだろうか?
そこには虚無しかないのに。
虚無であっても、約束は存在している。その均衡点を破ることが出来れば、役割を演じることで生きていける。そこが成熟への分岐点かも知れない。「影」を半分だけ持って生きていく、成熟した人生の。
最後に主人公の背中を優しく触れた手は、一体誰の手だったんだろう?
他の村上作品での、登場人物の「タフさ」は、上記に記したような孤独感、すでに/つねに愛する者を失ったという、現前化しない経験がもたらす諦念が根幹にあると思う。その諦念のもとに、それでも生きていくという「選択」をした主体*1が放つ強さ、それが村上春樹のタフさであり、一種の陽気さでもあると思う。
ところで
孤独を忘却する動物化、孤独を再物語化するスノビズム、孤独をタフに受け入れる春樹風
キミはどう生きるかね。 m9( ̄□ ̄)
この場合、「孤独を忘却する」生き方は、動物化という環境において個人が取る生き方としては、「乖離」が適当かと思った。
*1:主体とは、論理的推測が成り立たない状況下において選択をすることによって生まれる