reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「被害者の呪い」を解呪するにはどうしたらよいか?

内田先生のエントリ。
被害者の呪い - 内田樹の研究室


この問題意識は、まっすぐに、大人たる「センチネル」たちがいないという問題に通じる。


「センチネル」については以前の記事でも取り上げた。

「子どもたち」しかいない世界で - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)


「被害者意識」というマインドは、自らを被害者だと規定し、

「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型

で自分の状況を説明することである。


この状況に自分の身を置くと、その説明に「居着く」ことになる、と内田先生は言う。

もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。

これは前件に背馳する。

それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。


この矛盾を回避するために、人は更に自らの「被害者性」を声高に訴えることになる。


事態の解決は、

争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。エンドレスの争いを止めたいと思うなら「とりつく島」は権利請求者の心に兆す、このわずかな自制の念しかない。

私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。

という、「わずかな自省の念」にのみ宿る。


結局のところ、一旦自らを「被害者」として規定してしまうと、その自縄自縛から逃れることが出来づらくなる、と言うことだと思う。


ではどう考えるべきだろうか?




これまでは、それぞれがそれぞれの「連帯」に拠って自己主張を声高に叫んでも、それを受け止め粛々と事態を収拾する人々がいた。

政府や官僚や企業や労働組合や地域社会や家族などに、無数の「センチネル」達がいた。

自己主張を声高に叫ぶ人たちも、一面では自らの組織や社会に対しては、無味乾燥でつまらない、自分の益には何もならないような、けれどその組織や社会が運営されるためには必要な仕事を黙々とこなしていた。

彼らは、自らの利害とは直接関係のない、けれど誰かがやらなければ社会が回らない仕事を黙々とこなしていた。

彼らは、自らの与えられた領分において、その良心とはほとんど関係なく、その仕事を全うした。

そのため、社会は回った。

けれども、そういった「大人たち」が、今いなくなりつつある。


もちろん、被害者は被害者なのであって、その被害と救済を訴えることは必要だ。

けれども、その事態を収拾するのもまた、人間なのである。

想定された「加害者」がいない場合、人はどうすればいいのか。

想定された「加害者」が負債を払いきれない場合、人はどうすればいいのか。


事態を収拾するための、ベストではないベターな解決を目指すしかないだろう。

想定された「加害者」による救済なり負債の回収だけではなく、その他の「宛先のない善意」によって、被害者が救済されることが必要だろう。

そして「被害者自身」が、この状況に対して、行動できる事柄は行動することが必要だと思われる。


このように書くと「なんだよ自己責任論かよ」と言われるかも知れないが、そうではないと僕は思っている。

「自己責任論」は、本人では事態の打開はどうしようもなくなっている状態、誰かの手助けが必要になっている状態で、「あなたの自己責任なんだからあなたがなんとかしなさい」と誰も救いの手を伸ばそうとしない、そのような事柄だと思う。

これは「無関心」に近い。

ある場面ではどうしようもなく困窮していて、誰かの手助けが必要であっても、別の場面では誰かに対して何らかの方法で手を伸ばせるかも知れない。

その手を伸ばすか伸ばさないか。その違いだと思う。その違いは決定的だ。


社会の再設計は、一度になされるわけではない。

それは無数の人々の、「宛先のない善意」の総和として行われるのではないか。

そしてそれは、まず事態への「無関心」から脱し、何かしらの関心を寄せることから始まるのではないか。


人は自らが「被害者である」と認識するとき、最も残虐になれる、と言うのも歴史の教訓である。

そのことを、僕自身振り返り、考えたいと思う。

村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

  • 作者:内田 樹
  • アルテスパブリッシング
Amazon