なんとなく死んでしまうということ
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080428/1209385193さんに対してのエントリ。だいぶ遅くなってしまったが。
完全なる選択とは何だろう?
あらゆる精神的なノイズの入らない、まったく純粋に理性的に導き出された自己に対する決断などあり得るのだろうか?
僕は先週大変に落ち込み希死感に囚われた
とにかく死にたくてどうしようもないのだ。
ロープを用意しつつ、Twitterやったりしていた。
そのとき、ほとんど心理的な原因はなかった。
悲しいことがあったから、死にたい、と言うのとはちょっと違った。
物理的な要因として、ちょうどその前の週に、抗うつ剤の量を減らしていた。
たぶんこのことが、最も大きな要因だったと思える。
今週の自分の身体は鉛のようだ。重くてどうしようもない。
這って動いている。
身体はまったく正常だ。
しかし、力が湧かない。
這々の体で診察に行き、抗うつ剤を元の量に戻すことになった。
これで効いてくれれば、これまでのように軽い身体に戻る。
そうあって欲しい。
「自死は自己表現」という意見に対して疑問を持ってしまうのは、自分のこういう体験があるからだ。
人間の感情は容易に変わる。
脳内物質のわずかな変化で死にたくなったりそうでなかったりする。
明日僕が死んでも、何ら不思議はないと思う。
突発的に、そういう行動に出ることは十分に考えられる。
だから、観念的に死ぬ原因を考えることよりも、その人が死なない方法を考えることがまず第一である気がする。
それは、薬物的に確立しているわけだし、手だてとして打てるのだから。
どちらかというと、死んでしまいたいというこの気持ちを「結果」として捉えたときに、問題が生まれるのではないか。
その原因となる美しい物語を編もうと、無意識のうちに、本人や周囲の人間の間に「共通の意識」が芽生えるのではないか?
それが<死者の声>ではないのか?
原因と結果が取り違えられているんのではないか?
「死んでしまいたい」という気持ちこそがむしろ突発的な原因で、それは脳内物質の過不足だったりそのあたりが問題で、実際に「死んでしまいたい気持ち」の原因などありはしないのかも知れない。
原因なんて、探せば、それこそ山のように見つかるのだから。
死者に対して、常に「なぜあなたは死んだのですか?」と問いかけ続けなければならないのは、人間が人間であるからである。
埋葬を始めたときに、人間以前の動物は、人間になった。
死者は常に勝ち組だ。
「死」の意味は実際には生者にとってのみのものだ。観念は常に「生者」のものだから。
生者は<死者>を呼び出し、それを弔うことで、死者に還ってもらう。
弔いがきちんとなされないとき、<死者>は地上にあふれ出す。正確には生者の心の中に生まれる。
だから、人は死者を弔う。弔って、還ってもらう。呼び出す行為が、還ってもらう行為に直結しているのだ。
弔いを行う動物、それが人間である。
続き、のようなもの