reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「国語」としての日本語は、滅びない。そして英語は道具として使われる。

が相次いで、この本

を絶賛し、紹介していますが、僕は違和感を感じます。


英語がこれからの若い日本人にとって、必須のツールになっていくことは間違いないでしょう。

それは「道具としての英語」として、誰もが当たり前に持つ能力の一つになっていくと思います。


しかし、そのことと「日本語」が亡びる、ということは全く別のことだと思います。


日本語という「国語」は、国家統合の要であり、象徴なんです。

日本語を話すから、「日本人」という共同幻想のメンバーに加わることが出来る。


むしろ、英語がコミュニケーションツールとして使われるようになればなるほど、日本語は「高級な言語」「国語」として、歓迎され、階層の高さを表す一つの教養としての扱いを受けるでしょう。

もし日本がフランスのような階級社会になっていけば、逆に「美しい日本語」を話せないことで、文化的な壁が立ちはだかるでしょう。


日本が幻想として、自明ものとしてきた「一国家一言語一民族」を支える基盤はこれから揺らぎ、若い世代ほど他の国々の人々との交流に対して違和感を持たなくなるでしょう。

しかし、それでも英語は「国語」ではないのです。国語は近代に作られた国民統合の象徴であり、国民のアイデンティティであり、よりどころなんですから。


僕には、id:umedamochioさんやid:dankogaiさんが「日本語が危ない」と「危機感」を持つ、その危機感とやらがさっぱりわかりません。


英語は道具、日本語は「国語」。そうなっていくだけのことですよ。

それは危機でも何でもありません。

英語は「国語」にはなりませんよ。


「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」とベネディクト・アンダーソンはその主著「想像の共同体」で述べています。

国民という概念は近代になって創造されたものなんですよね。

その「国民」概念を支えているのが、共通言語として作られた「国語」なんです。

「国語」は、簡単には衰退しませんよ。

グローバリズムが簡単に国民国家や民族や宗教を駆逐するどころか、かえって強化したように。