reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

派遣切りされた人間にも「自己責任」がある、と言う議論について

大変ばかげた議論なので、きちんと封じ込めておく必要があると思い、書く。

とくに金美齢氏は、己の自己責任を恥じ入るべく、100回は読み直すように。


すこし迂回するが、「悪」の問題からはじめる。

「悪」の矛盾

「悪人」には矛盾がある。


1)彼は生まれながらにして、その性質、その気質が「悪人」であるから、彼は悪人である、と言える。

2)しかし、彼が行った行為は、彼の「自由意志」で行われた−「善」なる行動も選択できた−ものでなくては、「悪」とは言えない。
かれが自分の「自由意志」とは別に行動したのだとすると、彼に責任は問えないのだ−つまり「心神耗弱」状態と同じだということだ。


だから、
1)悪人は元々「悪い」ことしかできない
2)にもかかわらず、彼は「善行をなす」可能性を持っているから、その行為に責任を持たなければならない


ということになる。

必然的に悪事をはたらく悪人が、善行をなす可能性を持っている?

矛盾である。

「悪」とは、一度も選択したことのない「自由選択」に基づいている

この解決方法を、カントはこう指し示している。

「カントの解決方法はこうだ−<悪>の選択、<悪>の決定を、無時間的・先験的・超越論的な行為と捉えるのである。つまり、時間的現実においては一度も起こらなかったにもかかわらず、主体の成長や彼の実践的活動の枠組みそのものを構成している、行為として捉えるのである」

(「イデオロギーの崇高な対象」スラヴォイ・ジジェク p.253-254)


ラカンの言う<現実界>もまた、現実には起こらなかったが、事物の現状を説明するためには、事後にどうしても前提としなければならず、「構成」しなければならない行為である」
(同前 p.257)


要するに、彼は一度も自由な行動を取ることがなかったにもかかわらず、「彼は自由な選択の末に行為に至った」という枠組みで捉えないと、彼の行動は説明できないのだ。

「悪」と「自己責任」

この論理は、「自己責任論」に直接繋がる。


人は、困窮している誰かを「自己責任」の結果である、と言う。


1)彼の生来的に持っている性格であり、彼はそういう性質、気質を持っているから、彼はそういう行為に及んだ、と言える。

2)しかし、彼は「自由意志」で、今の困窮の状態に置かれているのであり、それは彼の選択の結果である。


という矛盾だ。


そして同様に、「彼は時間的には一度も自由な行動を取る可能性はなかったが、彼が自由意志を持っていないと彼の責任が問えない」という「前提」において、彼の自由意志は無時間的・先験的・超越論的な行為として、実践されたと捉えられる。

「悪」や「自己責任」が生まれる場所

では「悪」や「自己責任」を生む「主体」とは何か?


それは「呼びかける主体」である。

「何をしていたんだ?どこにいたんだ?この白い染みは何だ?」客観的に正しく、私を罪悪感から解放してくれるような答えを口にすることが出来たとしても(たとえば、「友だちと勉強していたんだ」)、罪悪感はすでに欲望のレベルで認められてしまっている。どのような答えも言い訳なのだ。「友だちと勉強していたんだ」という即座の返答によって、私はまさしく、自分は本当はそうしたくなかったこと、私の欲望は遊び回ることだったということを、確証しているのである。


問いは、全体主義的な相互主体関係の基本的手続きである。……全体主義的権力はすべての答えを握っている教条主義ではない。反対に、すべての問いを有している審級なのだ。……そうした問いの狙いはつねに、権威を体現している他者の不能、無力感、欠如を捕まえることである」

(同前 p.271-272)


「何をしていたんだ?」という問いが、「悪」や「自己責任」という矛盾を構成する鍵になる。


問われた人間は、いわば、「先手を取られる」。


問われた時点で彼はすでに悪人であり、罪人なのだ。

「告発の手続きとは主体を、(ラカンの用語を別の文脈で使うと)すでに知っているはずの何者かの立場に立たせることである。たとえば『審判』で、ヨーゼフ・Kは日曜日の朝に裁判所に出廷するよう召還される。審問の正確な時刻は決められていない。彼がやっとの事で法廷を見つけると、判事は彼を責める。「一時間五分前に来るべきだった」と。


兵役における同じ状況を覚えている人もいるだろう。下士官は最初から怒鳴って、我々を罪人扱いする。「馬鹿面して何をぼーっと見ているんだ。なにをすべきか、わからんのか?まったく何度説明したら、わかるんだ」。しかるのちに彼は、それが余計なことであるかのように、つまりわれわれがすでにそれを知っているかのように、あれこれ説明する。


主体は、彼が知っているべきことをすでに知っているかのように扱われる状況にいきなり放り込まれることによって、告発されるのだ。

(同前 p.275)

結局「自己責任論」からはなにも生まれない

金美齢氏の大好きな「自己責任論」だが*1、自己責任とはそもそも矛盾した言葉なのだ。


彼が派遣を選んだのは自己責任だ。彼が蓄財をしてこなかったのは自己責任だ。彼が派遣切りされたときに備えていなかったことも自己責任だ、等々。


それは、「どうしておまえは1時間5分早く来なかったのだ」と後出しで言うことに等しい。


「どうしておまえは〜ではないのか?」という、主体を問う位置に立ってしまえば(つまり、機先を制してしまえば)、先手を取ったものは、相手を活殺自在に出来るのである。


要点は、そこだ。


「おまえはどうしてこうなったんだ?」という立場を取ることと、相手を「悪」や「自己責任」の立場に立たせることは同時に立ち上がる、一つの関係性なのだ。


だから、「自己責任論」では、なにも解決しない。なんとなく、事態に「説明」がついたように感じるだけだ。


マクロな論議はそれはそれとして行うが、個々人の問題については、これからどうするかについて、個々人の救済を行っていくしかないだろう。


その視点に立てば、「自己責任論」などは、有害な雑音でしかない。

追記:


大前提として、金美齢氏などが大喜びで「諸君」などに書く「自己責任論」というのは、たとえば派遣村に行かざるを得なかった人たちの境遇を「結果」として、その原因には彼らの怠慢がある、というロジックで展開されている。


ここには大きく抜け落ちているものが二つあって、

  1. これから個々人はどうするの?
  2. 国家の役割などはどうするの?

だ。

これは、明らかに意図的に落とされている。


問題は、「彼らが派遣村に行かざるを得なかったのはなぜかを糾弾すること(金美齢氏が熱弁をふるうように)」ではなく、実際その中の多くの人はその日暮らすのも大変な状態だから、セイフティーネットを働かせて、彼らの今後の「自己権利」の行使を妨げないという行政の役割が求められているのだ。


なにも「全部国家が面倒を見よ。俺は寝ているから」などという議論をしていないことは明白なんだけれど、どうもこの手の議論になると顔を真っ赤にしてそういう主張をする人がいて、「いわば社会主義!」とか言い始めるんだけど、ムダムダムダムダ


実際に閣僚が参加している討論会で、「やはり行政による最低限のセイフティーネットの行使は必要ですよね」と全体がまとまりかけているのに、そこでいきなり「彼らにも自己責任がある」とわめき始めるのは、やはりこれからの行政の責任などをうやむやにするために送り込まれた刺客か?と思わざるを得ない。


がんばっている人の応援をしようよ、とみんなで話しているところに、「みんながんばっているのに、その人たちだけ応援するのはずるい!」とわめくのはおかしいでしょ?といっているわけです。おわかり?


id:zakincoさんからご指摘いただきました。そうそう、これです。

*1:よく「彼らの行動に数パーセントは自己責任の部分もあった」という珍妙な議論を繰り広げるが、いかにそれがばかげているかは上述の通り