reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「作文」教育には「ツール」が無い

子どもに作文をさせるのはなぜなんですか? - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)」の続き。

作文を書けない子は、「ツール」を持っていない

「書けない」子どもって、結構まずいと思うんですよね。


その子には「ツール」が無いから。


そもそも人間の「内面」は、言葉によって作り出されるものなんですよ。


「むかつく」といえば、むかつくように内面は形作られるだろうし、もっと微妙な感情を持っていたとしても、その子が「むかつく」という言葉しか知らなければ、彼の内面はそれ以上の微細な感情として認識されない。


微細な感情を生み出すための「言葉」は、「ツール」無しでは生み出せないんです。

言葉によって世界は変わる

エスキモーには、日本語で言う「雪」を表す言葉が400語以上あると聞きます。つまり、日本語の世界では単一の「雪」でしかない雪が、エスキモーの世界では400以上のグラデーションに分かれて存在しているんです。


日本語と英語でも、「お湯」という言葉は英語にはありません。「hot water」でしょ。「水」と「湯」という分け方をしていないんですね。英語には「お湯」という語感を生み出す感性がないんです。


感性が言葉を生み出すだけではなく、言葉が感性を生み出しもします。


貧しい言葉しか無ければ、その世界観は貧しいです。

子どもに「作文」を書かせる理由

僕は、子どもに作文を書かせる理由は、子どもが言葉を紡ぎ出すことで、自分自身の世界観を作り出すためだと思います。


でも、内面がすべて最初から何かしらの言葉で「ラベリング」されているわけではないから、自分自身でそのラベルを探してくる、もしくは言葉の海の中で、それに近い言葉を見つけてくる作業を繰り返す、ということになります。


しかも、既存の言葉を組み合わせて、出来るだけ近い言葉の連なりを探す、ということになります。


そうやってぐちゃぐちゃと内面と外界を行き来することが、結構重要じゃないのかな、と思います。


その行き来には、ツールが必要なんです。

「作文」には、内面を言語化するための「ツール」がほとんど提供されていない

でも、作文にはそうやって言葉を紡ぎ出すために必要な「ツール」がほとんど提供されていないんですよ。

ここが問題だと思っています。


算数なんかだと、ツールはたくさんある。

公式が出てきて、それを導き出すための方法が書いてあって、それを元に例題を解き、練習問題を解くと、算数を解くための「ツール」が一つ手に入る。

そうすると、応用問題でも、それらいくつかのツールを組み合わせて解くことが可能になります。


本来、「作文」こそ、最初にそういった多くの「ツール」を学ばせるべきなんだと思います。


でも、「内面」を表す言葉をつかみ取るために踏むべき「段階」が全然整っていない


なのに、自分の好きなこと、嫌いなこと、自分がどう思うか、他人がどう思うか、などの応用問題をいきなり解かせようとする


「ツール」を手に入れないまま、応用問題を解くって、これは難しいことですよ。


これは、教師の側に「内面は自動的に言葉になるはず」という自然主義的な言語観があるからだとおもいます。

「作文」には明確に評価の基準がある

「何を書いてもいい」から、実際に作文用紙のマス目を埋めればそれでいいのか、というと、それは違うと思います。


豊かな言葉を操れると言うことはつまり、豊かな世界観を持っている、ということです。「作文教育」*1の目的はそこに集約されると思います。


「むかつく」一言ですべてをすませる子どもの世界観は、とても貧しいです。そこに、可能性としての豊かな内面が存在していたとしても。


では、なぜ豊かな言葉を紡ぎ出す力が必要か?


その子が、困難に出会ったときや、これまでにない状況に出会ったときに(それは日常的にあります)、自分の内面を整理し、言葉によって発することで生き抜く力をつけるためです。これが作文の目的だと思います。


だから、「美しい文章」とか「子どもらしい文章」とか「良い作文」なんてのは、「作文教育」をする際の教育の基準にはならないんですね。


その子が、どれだけ「ツール」を掴み、未だ言語化されていない内面を言語化できたか、統一した世界観を持つことにどれだけ成功したかが、作文教育の目的ですし、評価点だと思います。


「作文」には、明確な評価の基準があります

このことにどれくらい先生方は自覚的なんでしょうか?

好きなことを書けなくなるから、子どものうちに書く?

子どもに作文をさせる理由 - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所さん


大人になったら「好きなこと」を選んで書けなくなるから。そして嫌いなことを書けるようになるために。


好きなことすら書けないのなら、嫌いなことはもっときつい。きついことをさせるより、とりあえずは好きなことをさせて、慣れさせたほうがいいと思うんだな。

タケルンバ卿は、「好きなこと」ならすらすらと書け、「嫌いなこと」は書きづらかったんですか?


僕は、両方とも苦手でした。とにかく、自分の「内面」にしっくり来る言葉が見つからなかったんで、それが「好き」であろうが「嫌い」であろうが、大変な苦労をしました。


そのときに、「いくつかのパーツを組み合わせて書く」という技法を実践的なツールとして身につけていれば、自分に問いかけて、それに応えるという方法で内面を言語化できたんだと思います。


結構好きなことを書くのも、大変なことだと思いますよー


それと、

「自分の好きなことを書きなさい」などといわれて、そんなこと書けるかっつーの!と思っていました。

おめでとう。内面、作り出せてるよ。

確かに「内面」ですが、これもまた、「むかつく」くらいのものすごい貧しい世界観でしかないんですね。

それが「作文教育」の目指すものなのか、僕は違うと思っているんです。

作文という教育の力

「放っておけば、子どもたちは好きなことを見つけてどんどんそれをやり出す」というのは事実です。


しかし、それと、「好きなことを言語化する」という技術の間にはものすごい溝があります。


それをいくつかの「ツール」で埋めていくのが「教育」の力だと思うんですが、いかがでしょうか?

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*1:というものがあるのか知らないので、知っている方にぜひ教えて欲しいのですが