「使えない」個性?
自分の個性が生かせない仕事はしたくない・働いたら負けだと思っている・自分の個性を大事にしてくれない社会が悪い・自分の才能を見抜けない上司が悪い etc…。そういう怨嗟をオーラのようにまといながら、心のどこかで“本当の自分”が開花する日を密かに待ち望んでいる男女が、今、いったいどれだけ存在するだろうか。
しかし現実をみるに、彼ら彼女らの個性がスポットライトを浴びる日が来るとは思えない。実際に与えられる仕事の殆どは、およそ没個性的なものだし、かつて夢見ていた“自分らしさ”とは縁の無いものばかりだ。
だから
どうやら、実社会の世界では『使えない個性は、要らない個性』だったらしい。
ってのは、かなりワーカホリックな考え方だと思うんですよ。
ワーカホリックな思考がベースにあるので、「個性への怨念」みたいなのが出てくるかと。
仕事で個性を発揮できないと気が済まない状態が異常
つまり、仕事が生活のすべてじゃないような時間の使い方をすればいいわけで、仕事が終わった後で、自分の時間を自分の個性を花開かせるために使えばいいんじゃないかな?
そういう風に生きている人はたくさんいると思う。
仕事に個性を感じられないとやっていられないような長時間過密な労働からそろそろ解放されるべきじゃないの?と問題提起すべきではないでしょうか。
個性がビジネスに取り上げられる時代
「個性とビジネス」の関係はすごく変化すると思う。
ビジネスはこれまでのような職業単位ではなく、プロジェクト単位で行われるようになる。だから、プロジェクトごとに、人は入れ替わる傾向にある。
むしろ、個性が光るチャンスは、ずっと広がると思う。これまで一部の人が継続して独占していたそれらのチャンスを得られるんだから。
「好きになる」のは、「その人のいいところを自分だけが知っている」から
あと、恋人や友人だけれど、これは内田樹先生の受け売りだが、「誰にとっても特殊な人間」を好きになる訳じゃない。
「この人のいいところを自分しか知らない」というふうに思いこむことによって、人は誰かを好きになる。
その思いこみは、その人の中にあるものだから、汎用的な「個性」とは異なる。
個性があろうが無かろうが、自分が「この人すごい」と思ったら、その人を好きになるのだ。
別に個性があるから好きになる訳じゃない。勘違いをしていると思う。
どんな「おはなし」で世の中を乗り切るか
結局、「個性が光ることによって既存の社会に適応できる」という「おはなし」が崩壊したというだけのことで、その「既存の社会」も大きく変容しているのだから、そこで議論してもしょうがないと思う。
マスコミ一極集中だった情報が、ネットなどによって誰でも情報発信できるようになり、身近な情報の方が価値を持ってきた現在とか。
仕事に個性を感じられないとやっていられないような長時間過密な労働からそろそろ解放されるべきじゃないの?とか。
そういう良い方向の変化が起きていると思う。
個性が仕事と直結していないと不安になるような物語しかもてていないことが、問題だと思いました。