reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「不安の時代」の「ものがたり」

「ネットカフェ妊婦」

今朝テレビで、「ネットカフェ妊婦」というレポをやっていた。

タイトル通り臨月を迎える妊婦がネットカフェ難民なのだ。ネカフェから産婦人科に診察に行く。

彼女には30歳になる夫がいて、なんとネカフェの隣の部屋で寝泊まりしていた。

夫が社員寮付きの工場に勤めていたが、クビになり、住むところが無くなってネカフェにたどり着いたという。

最終的に、夫はなんとか社員寮付きの就職先を見つけ、二人はそこに住まいを移し、出産にこぎ着けた。

「就職」できたので不安解消?

この話の落としどころは、「新しい仕事を見つけたので安心して出産できる」ということだった。

「就職」には、それだけの「ものがたり」が付属していた。


でも、テレビは「めでたしめでたし」と話を締めくくっていたが、それは、もはや「かつて」の話なんだろう。


今や、いつクビになるかわからないし、福利厚生だって無い。
そういう危機感の元で、ぼくらは生きている。

「定職に就く」こととがなぜ不安解消になったのか?

ただ、改めて振り返ると、「就職」が「生きていける」という担保を引き受けていた時期ってそれほどあったのかな、と思う。


いつだって、クビにされておかしくない不安定な状態が続いていた。でも、「就職できれば大丈夫」という「ものがたり」があったので、とりあえずそのものがたりを完結させるためにみんな動いて、なんとか心の安らぎを得ていた。

いわば、だましだまし現状を生きていた。


それは、「安心のものがたり」だった。

「安心のものがたり」を編んで人は生きる

問題なのは、就職状況の悪化そのものだけではなく、「安心のものがたり」が壊れてしまったことだろう。

人は人生の指標をいくつかの「ものがたり」で構成するが、その「ものがたり」のうち、「労働」という物語が機能不全に陥っている。

そのため、「不安」がいたずらに広がる結果になっている。

不安に対抗する「ものがたり」

不安を解消する新たな「ものがたり」はどこにあるんだろう?

それがないと、人は生きていくのが難しい。

不安に対抗する「マッチョ」たち

「自己責任論」とか、「自分を鍛える」という「ものがたり」は、この「なんとなく就職してれば安心」という「ものがたり」の崩壊を代替するものなんだろうけれど、それに耐えられる人は少ない。


そもそも「自己責任論」とか「自分を鍛える」=マッチョになる、というものがたりは、「誰かは落ちていく」という不安を基礎にできあがっている。


「労働者は、クリティカル・ワーカーとルーティン・ワーカーに二分されていく。クリティカル・ワーカーは、ずっとクリティカルな仕事を続けていく傾向に、ルーティン・ワーカーはずっとルーティンな仕事を続けていく傾向にある。そして、言葉の壁などで守られないルーティン・ワーカーはグローバルな競争に巻き込まれざるを得ない」

という未来予想はおそらく正しいのだろうが、それで、人々は簡単に上下に引き裂かれるのか、というと、僕は疑問だ。


生活保護の水準以下に賃金が引き下げられたときに、その保障をしなければ国家が存在する意味がない。一部の人だけが生き延びられる国家は、存続できない。


結局、「落ちていく恐怖」を煽るのは、「オオカミが来るぞ」というかけ声になる気がする。

そして、「落ちていく恐怖」を煽ることで、横のつながりが切れてしまい、共有できる「ものがたり」を失ってしまうことが、いちばんの損失である気がする。


マッチョの物語は、共有できないのだ。

安心できるものがたり、とは?

今、共有できる「安心のものがたり」は、やはり人と人とのつながりでないだろうか?


「抜擢される人材」として、常に社会の第一線で働き、高収入を得、それが次の仕事に繋がっていく、という「ものがたり」は、現実として存在する。でも、それが唯一ではない。


「抜擢される人材」は、「おもしろいヤツ」だ。

おもしろいヤツって、マッチョじゃなきゃだめなのか?

プロデュース次第じゃないのか?


年収300万円で生きていても、おもしろいヤツはたくさんいて、一緒にいると楽しいヤツらはたくさんいる。

彼らはブログなどで自分のおもしろさを発信したり、他の人から発信されたりしているから、「抜擢」を受けることもあるだろう。


「抜擢」を受けた先が、やたらと高収入な仕事でなくても、クリティカルな仕事というのはあるし、その人しかできない、という仕事もある。

最低限食べていけるだけの収入がある上で、そういった仕事を持てることは、豊かに生きていけることになると思う。


だから僕は、「年収300万円時代の生き方」と「抜擢される人材力」は相反するものではないと思う。


もちろん、「年収300万の人が、抜擢されて年収1億になっちゃった」という事態もあり得るけれど。

問題は「ものがたり」の選択

「こんな時代だから」と不安に駆られて必死に生きるのも、一つの生き方だし、「こんな時代だから」こそ、最低限の生活でも人間関係を広げたりして豊かに生きていくのも一つの生き方だと思う。


結局問題なのは、どの「ものがたり」を選択して、そのものがたりの中で生きていくか、ということなのだろう。


僕は、「つながり」という「豊かなものがたり」を共有できれば良いと思っている。


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