積ん読の対処の仕方
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20091231/1262225662さん
僕は基本的にケチなので、あまり積ん読にはならないです。
それでも、本は溜まって、本棚二つ分くらいになります。
積ん読は視界雑音
積ん読は目の毒なんですよね。
目の前にあると、「視界雑音」になってしまう。
注意を散漫にさせます。
だから、僕は極力箱に入れてしまっています。
とりあえず目に入らないところに置いておきます。
で、箱には番号をつけて、デジカメで写真を撮っておきます。
こうすると、目の前に本が無くても、どこにあるかさっと探すことができます。
読みにくい本が多い気がする
前にも書いたのですが、本って目次を読めば何が書いてあるかわかるはずなんです。
物語で無い限り、実用的な本の大半は、言いたいことは一つです。
一つの言いたいことを補足する形で章立てがされます。
「章」は「いいたいこと」を説明していて、「節」は「章」を説明しています。
説明するとは、因果関係を成り立たせることです。
それらを並べるとピラミッド型になるはずなんです。
ピラミッド型になっているとき、情報量が多くても、人は一目でその内容を理解できます。
いろんな情報=コンテンツの間のつながり=コンテキストを整理する。それが編集です。
というか、編集ってその意味しかないんですよ。
逆に、優秀でなければ編集行為はできない。
だから、編集者とかライターという人はペン一本で仕事できるわけです。
でも、まともに編集できていない本が多い。
コンテンツとしては面白い本が多いのに、きちんとコンテキストの流れが作れていないので、非常に散漫で意味が取りにくい本が多いのが残念です。
「積ん読」は必要悪
普通、本はプロである編集者の目を通して商品として販売されるので、その値段だけの内容を持っているはずです。
ですが、想定している読者に自分が入っていない場合や、今の自分には必要がない内容である場合もあります。
そもそも、コンテンツが自分とミスマッチを起こしている場合です。
書評を読んだり、感想を読んで当たりをつけてもなお、読んでみないとわからないことがあります。
いざamazonで取り寄せてみると、「なんじゃこりゃ」という内容であることも多々あります。
「自分の頭が悪いのか」と情けない気持ちになることも当然あります。
しかし、いきなり自分の欲しい情報が手にはいるはずがないんです。
書評は、よりよい本を購入する手助けをしてくれますが(だから書評のアフィは踏む)、「万人向け」の書評は、結局「あなた」に合う本なのかは教えてくれません。
およそ書店に並んでいる本のうち、自分にとって必要な本は2割だと言います。
その2割のうち、重要な部分は8割だけです。
だから、何冊も読んでみてピンとこなくても、それは「授業料」として支払う、という割り切りが必要だと思います。
無駄な本は、良い本に出会うために必要な費用=サンクコストだったととらえましょう。
私は極端にケチなので本を買わないのですが、授業料を払わないであがりだけ取ろうというのは浅ましいだけではなく、「目利き」としての目を養うことにもなりません。
だから、お金と時間の対価を支払おうと思っています。
読める本の数より、読みたいと思う本の数が上回る状況は、まったく正常なので、「積ん読」は正常な状態だと思います。
図書館で借りてもタダではない
図書館で借りるにしても、「時間」という対価を支払っています。
ですから、図書館で借りるにしても、まず目次をざっと読んでみて、コンテキストが整理されているか、編集がダメダメならそれでも読む価値があるのかを判別した方が良いと思います。