reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

なぜ浮浪者は「襲撃」されるのか

ちょっと回り道をしながらのおはなしです。

なぜ「科学」は「観念論」に回帰したのか

唯物論とは「科学の勝利」でした。

しかし、二度の大戦を経て、科学の勝利であった唯物論から、「マルクス主義者」たちは結局ヘーゲルに回帰しました。

「フランス現代思想」という衣装をまとって語られたのは、「概念の哲学」でした。


なぜ、唯物論は、ヘーゲルに、つまり「精神の現象学」に回帰したのでしょう。

超克したはずの「観念論」に。


それは、観念論は独我論のみではなく、共同幻想を包括しているからです。


共同幻想幻想でありながら実際に現実に影響を及ぼします

貨幣などは全くそういうものです。


カントのコペルニクス的転回とは、感覚の受容の仕方によって世界はあり方を変える、ということでした。

私たちは「水槽の中の脳」であり、外部を直接認識することはできません

感覚器を通して得た、電気的な刺激を脳内にとり込み処理しています。

処理の如何によって、世界はその形を変えます。

なぜ科学は「死」を扱えないのか

「死」を、科学は扱うことができませんでした。

生物的に「生きていない」ことは、すなわち「死」ではないからです。

そして、「幽霊」や「妖怪」といったものは、科学からは一笑に付されても、徘徊し続けるものだったからです。


今も幽霊はさまよっています。


幽霊とはなにか。

弔われなかった「死」です。


人は、社会のネットワークから「人」として認められて、人になります。

そして、生物から無生物になって、社会のネットワークから「死んだ」と除籍される=弔われることによって、「死」ぬことができます。


幽霊は、つねに生者にとっての幽霊です。

科学と社会=ヒトの認識における「死」とは

生物的な「生物・無生物」と、社会的な「生きている・死んでいる」を表にまとめてみました。


生と死の表

(クリックで拡大)


この表で重要なのは、現実に存在するのは1のみ、ということです。


そして、生物的には生きていないが、社会的にまだ生きているヒトを放置すると「幽霊」として徘徊します。

もちろん、上述のように「共同幻想」に置いて。

生きている人びとの観念の中に、実態として現れるのです。

これを、正常な「死」に変換するのが「弔い」であり「葬儀」です。


逆に、2にあるような「社会的に抹消されているけれど生きている」人は、人間として再認識されるよりも、「抹殺」されることが多いです。

それは一般的にはネグレクトですが、ときどき襲撃という形を取ります。

なぜ「超自我」はつねに「過剰」なのか

社会の「法」を内面化したものが「超自我ですが、少なくとも資本主義社会における超自我はつねに「過剰」です。

「過剰」とは、たとえば

  • 「おいしいお菓子を上げる」と、なん百キロものお菓子を無理やり口の中に詰め込むこと
  • 性行為を度を越した時間と密度で行い嫌悪感のみをもたらすこと

といったものです。

この、快感を不快に変える過剰が超自我の正体です。

すなわちそれは、「攻撃性」です。


なぜ子どもたちは浮浪者を襲撃するのか

なぜ子どもたちは浮浪者を襲撃するのでしょうか?

社会が許容しているからです。超自我が命じているからです。「法」から外れたものを駆除せよと命じるのです。


なぜ社会的な規範=超自我は「襲撃せよ」と命じるのか。

それは、社会が「亡者の徘徊」を恐れるからです。


そこに現れる「攻撃性」とは、不安に対する「防御」です。


社会的な登録がなされていない人は、つねに襲撃の危険に直面します。

なぜ「ブラック企業」は素手で便所掃除をさせるのか

たとえば、ある程度儲かってきた企業は、自分たちの企業を、より良い社会的立場に登録するために、「仕事の品格」といった社長本を出したり、素手で便所掃除を始めたりします。

そうして「既得権者」たちに好かれることが、潰されないための自衛策となります。


それは、ライブドアが球団を持てず、楽天ソフトバンクが球団を持てたことに象徴されていると思います。

儲けのしくみをもっていても、襲撃され抹殺される危険につねにさらされているのです。

便所掃除で仕事の効率はアップなんかしない。

30秒で社訓を3つ言えても仕事に結びつかない。

けれど、襲撃はされない

ある一定層の経営者はつねに、そういった点にも気を配っています(自身のブランドづくりということも含めて)。

不安な社会は「攻撃性」が充満する

しかし、さしあたって私たちは、もっと身近な2の存在について考えるべきでしょう。

ここに「認定」されてしまうと、いつなんどき「襲撃」されるかわからないからです。

そのためにできることは二つ。

  1. 社会的に「生きている」と登録される。社会も法も、あいたいする複数が併存しているから(してなかったら全体主義)、登録される場所はひとつである必要はない。
  2. 社会的に「生きていない」という登録を外す。一種のステルス状態になる。

です。


最悪なのが「社会的には存在しないと登録されている」状態が続くことです。

でないと、「化物」とみなされて駆除されかねません。

それは、まったく「反正義」なことですが、「法」はときに「反正義」です。


「法」は、自然には「正義」とは一致しません。

だから、私たちは己の中にある攻撃性と折り合いをつけつつ、「法」と「正義」を一致させようと努力します。