フリーのサービスの「責任」
「責任」とは、ものごとがおきたあとで、遡及的に、社会的ネットワークの中で「責任を取るべき位置」が決められ、たまたまそこにいた人が「取る」もので、予め決めることはほとんどできない。というより、社会における個人とは全てそのようなもの。
「場」が変わると、それまで存在しなかった、もしくは問題にされなかった「責任」を追求されることがある。
で、本題。
フリーのサービスを提供すると、割と文句を言われる。「責任を取れ」と言われる。
なんでそんなこというのかな、と。お金とっているわけでもないのに、と。それを説明しても、ユーザーによく理解してもらえないことがある。
わりとね。こういうブログとか、草の根SNSとか、個人放送のラジオとかね。(あとついったーとかTwitterとかツイッターとか。よくわからないけど、ニコ動とかニコ生とかも?)
フリーのサービスは、実際には対価がどこかで発生している。
それがいままでは開発者のスキルアップや自己満足だった。
しかし、
で書かれているように、「フリー」をひとつの魅力にしてビジネスが展開されるようになると、ユーザーの側も、「フリー」サービスの企業に、「金を払ってサービスを買って、その代わりに責任をとってもらう」という姿勢を求めるようになる。企業の側も、それを受け入れる。
そうすると、それまで「シェア文化」の共有が前提だったフリーの文化が、ユーザーと製作者で共有されなくなる。
そういう前提のもとに、個人の開発者や提供者に「責任を取れ」との言葉が来る。
製作者の側が「シェア文化」の中にいるつもりで公開したら、「責任を取れ」と言われたでござるの巻。
対応
- 無視
- 公開停止
- 対話
対話にかけたいものだ