学校に未来はないのか?
このところ騒がれている「いじめ」の問題で、
- 「学校自体に意味が無い」
- 「グローバル化が進行している中、必要とされるのはコモディティの人材ではなく、ユニークな人材。そういう人材は学校では育たない」
- 「学校以外でもいくらでも学べる。学校なんか行かなくていい」
- 「学校で学べるのは、『いじめ』のような『政治』だけ。むしろ行くのは害」
というような意見が出てきていますが、そんなのは学校の問題じゃないんじゃないか?
先日のこと。
幹線道路沿いのマクドナルド。
涼を取りながら作業しようと入って、いきなり甲高い声に圧倒された。
2階席は、夏休みの暇を持て余している子供でいっぱいだった。
中学生になったばかりか、そんな子供たちが男の子も女の子もあふれている。
3,4人の集団ごとにわかれているが、子供たちは全部で20人以上。それが、しゃべって、笑って、わめいて、叫んでいるのだ。
まさに動物園。そして、久しぶりに見る「学校」の風景。
店員もほとんど来ない2階席は、子供にとっては天国なのだろう。
落ち着きが無い。実に落ち着きが無い。子供たちには落ち着きが無い。
宿題を一緒にやっているらしいのだが、「答え全部写したよ」と誇らしげに騒いでいる子供に、ケタケタと笑う子供。
必死に友達の「ウケ」を狙おうと、訳の分からない言葉を羅列したあと、少し黙ったと思ったら、挑発的な言葉を投げかける。
「◯◯は☓☓が好きなんでしょう」とか。
男性か女性かほとんど未分化の子供たちがそういう話題をいうことは、成長のために必要なことだからいいんだけれど、うるさいんだわ、ここ、他の人いるし。
実にいい声量で、テレビに出てくる「おバカ」タレントの話を、自分の身内のように話す子供がいる。
あいつはバカだの、あいつは嫌いだの。
それだけ腹から出る声で話せるなら、ぜひ演劇か合唱をするといい。きっと充実した時間を過ごせるだろう。
でもここは一種公共の場なんだよね。もうちょっとご配慮を。
とはいえ、彼らも金を払って席をとっているし、うるさいことを問題にしたいわけじゃないので、早々に僕は退散した。
ああいう子を見ていると、自分の身内をあの中に入れて、なにか成長するのかは相当疑問には思えたが、それはそれ。置いておいて。
そう、テレビだ。
言いたかったのはテレビのことだ。
彼女らの話題は、出てくる固有名詞はほとんどがテレビ、その他は担任の悪口とか、そんな事ばかりだ。
この2012年になって、いまだにテレビがに子供たちの話題の中心であることに、驚きを禁じ得ない。
そういう意味では、テレビはいまだなお、勝利し続けている。
7時台のテレビを見たことがあるだろうか?
普通は、ない。
その時間、大人は家にいないし、若者は別のことをしているから。
テレビ、特に7時から9時台のテレビは誰が見ているのか。
老人と子供だ。
老人と子供は学校についてものを述べない。
だから、「テレビが子供をアホにしている」という、ごくアタリマエのことを、論点にする人がいなくなる。
7時台のテレビの内容は、おバカと学芸会と「いじめ」とアトラクションと手品とものまねと大食いと太鼓の達人だ。
要するに、夜の街の文化と人間を、
- 平日向けの内容にする
- テレビ全体が広告であるような番組編成にする
というふうに料理しなおしているのだ。
なんで夜の街かというと、よくわからない。
そういうつながりで出演が決まるからだろう。
タレントの皆さんは、どなたもガッツがあって頭もいい。
しかしながら「タレント」である人は少ない。「タレント」とは才能のことだ。ギフトのことだ。
ギフトがない人でも、十分に輝けるように、今のテレビは作られている。
なんという技術。すばらしい体裁。
子供は、テレビのスイッチが入ると、液晶画面が輝くと、目を離せなくなる。
そういう技術にテレビは満ち溢れている。
人を一旦惹きつけたら、スイッチを消すどころかチャンネルを変えることもさせない「魅力」を、テレビ番組は持っている。
そういう構成を、どうやったら人の注意を惹きつけるかを、余すことなくテレビは知っている。
一度テレビをつけると、子供の動きは止まり、画面に釘付けになる。
これはもうほとんど一種の兵器だ。
そしてテレビ番組自体が商品やサービスのプレゼンであるという構成。
視聴者、出演者が一緒になって、あらゆる商品・サービスのプレゼンをやっているのが今のテレビだ。
コマーシャルなんて時代遅れ。テレビショッピングとも違う。ものすごい高スキルで、プレゼンをプレゼンと感じさせないごく自然な内容を作り出している。
制作技術の頂点が、ここにはある。
これ、作っているのは下請けの下請けの、長時間過密労働低賃金のひとたちなんだぜ。
匠の技に、泣けてくるよな。
そうして、子供の柔軟な脳みそは、テレビの内容を、その息遣いまで脳のシワに焼き付ける。
やっぱりテレビが悪い。
明らかに、子供たち、彼ら彼女らの言葉は、テレビで誰かが喋った言葉だ。
彼らの集団づくりは、いつもテレビで見ている「タレントいじり」とか、そんなものの真似だ。
まず最初にするべきは、テレビがいかに、未成熟な子供をアホにするか、という認識じゃないのか?
学校が悪いから、子供が「いじめ」る? 原因は学校なんですか?
学校にはまともになにも教える力がない? 学校はなにも教えていませんか?
学校は、社会に出る力を養わない? ユニークさを剥奪する?
いやいや、テレビが悪いだろ?
個々人の判断(もちろん、一人で決めろという意味じゃない)で、学校に行かない、という選択はありだと思う。
学校だけが学べる場所じゃないのはそのとおり。
以前ブログに書いた。
でも、学校は努力しているよ。
先生たちは努力している。
先生たちは、こどもたちに基礎学力を身につけさせるために、業務時間外に研究をし、教材を作り、様々な努力をしている。
ぜひ、近くの学校でどのような授業をしているか、どのような工夫をしているかを知ってほしい。
子供の識字率が上がるのは自然の現象ではないんだ。
経済的・文化的に富む子も貧しい子も、一定の学力を付けられるように、学校が努力しているからだ。
仕事なんだから当たり前だけれど、これを「学校に学びなんかない」と言われてしまうとあんまりだ、と僕は思う。
その上で、教師はクラブ顧問なんかやってれば土日なんか無い。
教師が「勉強だけ教える」ものだったら、いかに楽だろう?
僕は人に物を教えるのは好きだが、教師になろうとは思わなかった。
「生活指導」というようなものまでさせられるのはたまらない、と思ったから。
勉強だけ、教えたかったから。
しかしそうはいかない。
で、学校で識字率を上げ、危険から遠ざけ、自主性を尊重したらどうなったか。
テレビや雑誌を見れるようになって、子供たちだけの集団でそれを再構成し始め、学びから逃走するようになったんじゃないのか。
これは、学校だけの責任か?
それはあまりにも、学校に責任を押し付け過ぎじゃないのか?
また、学校で勉強を学べない、は、正確ではと思う。
「学校以外の様々な場所でも、学びは可能である」だ。
学校を「切る」のではなく、学校以外の選択肢を増やす方向での話なら、なるほど納得がいく。
でも、原因と結果が逆であると思う。
テレビとか大人たちの世界の都合とかに振り回されている子供の面倒まで学校が見ているというのに、それを「学校が原因だ」としてしまうのはどうなのだろう?
原因は、テレビだろ? 雑誌だろ? マスメディアだろ?
彼らの振りまいているエンターテイメントとしての「いじり」だろ?
彼ら民間企業が民間企業らしく利益を追求していった結果生まれたものだろ?
原因というものを求めるなら、少なくともそっちじゃないのか?
最後に、では「学校制度」の問題はどうか。
「学校制度」が「いじめ」を作り出しているのではないか?ユニークさを潰しているのではないか?
これはそうなのかもしれない。
「いじめ」を生み出す下地のひとつに、「学級」制度があるとは思う。
子供だけじゃない、大人だって、一定時間同じ場所に、同じ人間がいたら、「関係」が発生する。
それが、容易に「いじめ」に転化することもありえる。
とはいえ、学校がなくなれば、悲惨な「いじめ」がなくなるのかというと、そうでもない。
軍隊とか、刑務所とか、今の会社にだって、一定時間同じ場所に同じメンバーがいるところでは、「いじめ」が発生する可能性があるし、現に起きてもいる。
問題なのは、では、そういうことが起きないためにはどうするか、起きた時にどう対応するかだろうと思う。
id:finalventさんの「じゃあ、今日は、イジメの話をしよう。: 極東ブログ」は参考になると思う。
あと、「ユニークな人間」も、基礎学力があれば、十全にその能力を発揮できると思う。
確かに学校は、「ユニークな人間」を育てる場所ではない。
少なくとも義務教育は、基礎学力という、土台作りをするところなんだから。
土台の上に、その人の個性、ユニークさを発揮していけばいい。
個々、ひとりひとりは異なるから、小学校の時点で、集団生活がどうしても無理な人はいるだろう。
それは、その子その子で違うのだから、先に書いた通り、それぞれ対応すればいい。
そのためには学校に余裕(バッファ)が必要。
なのに、学校を恫喝して、その余裕さえ無くすのは、結果として、ユニークさの萌芽を潰すことになってないか?
ただでさえ、教師は、首長とか大人たちの「政治」に増幅された「子供を監視すれば安心」というビビリのせいで、報告書やらなんやらでどんどん忙しくなっている。
同じように政治のビビリで非正規採用が増えて、「暗黙知」が伝わらなくなっている。
忙しくなって必死に駆け回っている先生を「いじめ」るのはやめたらどうだろうか?
さて、年間1万人の死者を無くす画期的な方法があって、それは「自動車を廃止すること」である。
そんなことは無理に決まっている。
同様に「テレビをなくす」というのも、現実的ではない。
それは、経済的な問題だけではなく、民主主義の問題でもあるから。
ではどう悪影響を減らしていくのか。
少なくとも、「『いじめ』は学校の責任」「教育委員会の隠蔽体質が原因」という、「それも」問題だという話を、「それだけが」問題だ、というのは間違っている。
それに、「それだけが」と言わせているひとたちの嗤い声もきこえないか?
ところで、「コモディティ化」とは、一つの目標だったことを忘れてはならないと思う。
「高校・大学の進学率と就業者数の推移」
これは、文科省の統計と総務省統計局のデータを元に作ったグラフ*1だ。
線グラフが「高校・大学の進学率」で、積み上げグラフが「就業者数の推移」だ。
それ以前は学べなかった子供たちが学べるようになり、家庭内労働が外に出ていった様子がよく分かる。
で、比率が高まれば、レア物はレアじゃなくなるのはあたり前のこと。
そのような努力を、「百年の計」として努力してきたのだから。
そういう「コモディティ化したインフラ」のもとで、十全に個性を発揮するかどうかはまた別の話だと思うんですがどうでしょう?
あと、「教師に監視競争をさせて給料で差別すればOKっす」は論外。
論外すぎて、だれも話題にしないので書いておく。
*1:LibreOfficeで作りました。二軸グラフが簡単に作れていいですね。そして、こんな資料をすぐに手に入れられることが、驚くべきことですよね