reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

オタクと大人

とはいえ、やっぱ30超えたら大人なんだよな……というのがぼくの中ではシンプルな事実です。精神とか趣味とか社会的地位とか関係ない。だから大人がいなくなったとかいう話は、あんまりピンと来ない(大人になろうとしてる人の大人像を聞くと、たまにニーチェの超人くらい大人をなんかすごいものだと思いすぎてることがあって恐ろしい……)。

番組内外伝でも言ったけど、岡田斗司夫が90年代に言ってた「ぼくらオタクは子供なんじゃない。新しい形の大人なんだ」というのが、もはや当然のようになっているこの時代。ぼく個人としては、大人かどうか問われれば、社会的にはそうなんじゃないすかねと答えるしかない。

やはり作家の感性というものはすごいと思った。


はてな村のひとたちは、この言葉が突き刺さる人は多いんじゃないか。

「『非モテ』論争」は、形を変えた、「成熟を先延ばしにする行動」なので。


岡田斗司夫さんの言葉がどういう文脈で出てきたのかわからないんだけれど、80年代の終りに大塚英志さんがオタクのひとたちに向かって「俺達が大人になるしかないんだ」といった「大人」が、海猫沢めろん先生の言われる、

大人になろうとしてる人の大人像を聞くと、たまにニーチェの超人くらい大人をなんかすごいものだと思いすぎてる


というものなんだろうと思う。


id:koshianさんのツイート



このとおりで、よく内田樹先生が、ラカンの言葉を引いていう、「知っていると想定された主体」というのが、教育的効果そのもの、だ。


「成熟を先延ばしにする」のはなぜ教育的かといえば、「その延長線上に成熟があるはずだ」と思い込むことによってしか、成熟はありえない、からだ。

そこに向かおうとする意思による鍛錬・育成によって、人は成熟に至る。「無茶な企て」以外に、成熟に至る道はない。


ところが、この「成熟」とは、自分だけのものだ。

というのも、企てるときに、「自分の中にない何か」に対して「無茶な企て」を行うからだ。

自分の中にはなく、誰かの中に実体化している(であろう)「主体」に人は向かっていくが、そもそもその主体を生み出したのは自分だ。

ここで、自分自身のほんとうとは何か、と、改めて問いかける必要はない。

というのは、自分が「想定している主体」に興味をもつこと、欲望を抱くことが、自分だけのものであることの証になっているからだ。


しかし、大塚英志さんや岡田斗司夫さんが見ていた「無茶な企て」とは、「オタクが社会的に非難されずに生きられるプラットフォームを作る」ということで、これは相当無茶な企てなんだろうし、本人たちもスペックが異常に高い人達だった。

だから、到達した高みも常人ではありえない高さだったんだと思う。

「人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる問題だけである」
カール・マルクス資本論」)


シンプルに、「精神とか趣味とか社会的地位とか関係ない。30歳超えたら大人です」と、自分自身で納得することも、ものすごいことですけれどね。


めろん先生の本、まだ読んだことないんだ。

手に取りたい。