reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

不貞と強欲の異端審問官

kousyouさんのエントリ「kousyoublog.jp – このドメインはお名前.comで取得されています。」に、以下のようなブックマークをした。

トビー・グリーンの「異端審問」で、ある異端審問官は、好みの女性がいれば夫を異端審問して奪い、金持ちを異端審問して財産を没収し、事情聴取にきた教会中央の役人を洗脳して「異端審問官は聖者」と言わせたらしい
reponのブックマーク / 2013年4月16日 - はてなブックマーク


書いた後、該当する部分がどこなのか自分でも調べたくなり、見つかったのでメモ。


後述の通り、スペインの異端審問はポルトガルに広がり、そして両国の植民地に広がった。その植民地、コロンビアに赴任し、メキシコを治めた審問官がそれだった。

1649年、メキシコシティ


……イエスズ会修道士マティス・デ・ボカネグラ異端審問所長マニョスカの業績に驚嘆し、彼の「堂々とした威厳、秀でた理解力、高い知性、成熟した判断力、長年の経験、ひたむきな誠実さ、こうしたすべてが(中略)彼の職務を正当化していた」と書いている。さらにボカネグラは言う。「何よりも素晴らしいのは、安らぎに満ちた審問手続きである。彼は正義の裁きを常に安らぎと見事に結びつけて執り行っている。次の言葉を彼の天蓋の紋章に記してもいいだろう。『正義と安らぎが口づけをした』と。


しかし「正義と安らぎ」は、マニョスカの日頃の行ないを形容するのにまったく似つかわしくない言葉だった。この人物の履歴を見ると、異端審問による迫害実態の怪しげな側面が浮かび上がってくる。実際、マニョスカの本性は、40年前の1609年にコロンビアのカルタヘナ・デ・ラス・インディアス(略してカルタヘナ)で最初の異端審問官の一人に任命されたときから、明明白白であった。

カルタヘナでマニョスカは、同僚のマテオ・デ・サルセードと共謀し、市場で取引する商人を日常的に連行しては、気に入った商品を強制的に取り上げ、言うことを聞かない商人は異端審問所の牢獄に入れていた。1624年1月には、カルタヘナで繰り返し密輸を行なっていた件と、仲間が密輸品を運搬中に逮捕されたのに勝手に釈放した件とで訴えられている。自分の味方に仇なす者を破滅させたこともあれば、友人の一人を、ラテン語も読めないのにドミニコ会の小修道院に任命したこともある。……また、市内に住む既婚女性と不倫関係にあることも公然の秘密だった

事態を改善しようと思ってか、スペイン本国の異端審問最高会議「スプレーマ」により、マニョスカは1623年、カルタヘナからペルーのリマへ異動になった。さらに1625年にはエクアドルの都市キトの審問委員会に送られたが、そこでマニョスカは委員会の判事を、最年少の一人を除いて全員ただちに解任し、残った一人も完全に手なづけてしまった。マニョスカの仲間の一人は、武器を持った一団を引き連れてキト市内を練り歩き、国王の派遣した官吏を広場でたびたび襲ったほか、一度などは剣の切れ味を試すためにアフリカ人奴隷を刺し殺している。……さらにマニョスカと取り巻き連は、わずか2年あまりの間に公金の散財を重ね、この地の植民地政府を破産寸前に追い込んだ

……異端審問官は多くの人々から法を超越した存在だと見なされていた。だからマニョスカは、数々の不正を指摘されていたにもかかわらず、1643年にメキシコの異端審問所長に任命され……一連の審判を準備できたのだった。

(「異端審問」p21-23)


同様の例は、上記の引用より時代を少し遡った、スペインのコルドバにもあった。

1506年、コルドバ


1506年、コルドバ異端審問官ディエゴ・ロドリゲス・ルセーロの手中にあった。ルセーロは、「エル・テネブレーロ」つまり「闇をもたらす者」という通称で知られた人物だ。その行状は、スプレーマ*1に申し立てられた彼に関する訴えに、次のように記されている。

ルセーロは、フリアン・トリゲーロスの妻と情を通じたいと思ったが、夫妻に抵抗されたため、妻を連れ去った。夫は旧キリスト教徒であり、[国王フェルナンド二世からの]裁きを求めに行ったところ、[フェルナンドは]夫の主張が正しいと認め、[トリゲーロスを]セビーリャ大司教[異端審問長官ディエゴ・デ・デサ]の元へ送ったが、大司教は彼をルセーロに送り返した。[トリゲーロスは]ある水曜日にコルドバに着き、裁判を続けようとしたが、翌週の土曜日に火刑に処された。ルセーロは、彼の妻を愛人とした。[別の事例では]ディエゴ・セレミンの娘は人並み外れて美しかったため、両親も夫も、彼女をルセーロに渡そうとはせず、そこでルセーロは三人を火刑にし、今では彼女に子供を生ませ、かなり以前からアルカサルに囲って愛人としている

(同 p103-104)


念のため、同書では、このような「異端審問」の記録を改めて検討するのは、ポルトガルとスペインの「異端審問」は権力の乱用によるものであり、過去の反カトリックプロパガンダを繰り返すためではない、と言明している。

ポルトガルとスペインの異端審問は、あわせて検討しなくてはならない。具体的な事務手続きにほとんど違いがないからだ。これは異端審問がスペインからポルトガルに広まったためで、ポルトガルに異端審問設立を認める最初の大勅書も、当時のスペインを治めていたハプスブルク朝の王カルロス一世(神聖ローマ皇帝カール五世)からの圧力を受けて出されたものだ。しかも両国とも異端審問は隠れユダヤ教徒に対する迫害に端を発しており、どちらの国でも異端審問は王権に属する制度になった。そして、おそらくこれが最大の特徴だと思うが、イタリアの異端審問や、それより古い中世異端審問とは異なり、両国では異端審問が植民地まで広がっていった。

……ポルトガルとスペインの異端審問だけ取り上げるのは、何よりもこれが権力および権力乱用の歴史だからであって、これを口実にして過去の反カトリックプロパガンダを繰り返すためではない

……ポルトガルとスペインの異端審問に対する教皇の影響力は、大して強いものではなかった。……異端審問の犠牲者でさえ、ローマでの正義とイベリア半島での正義が同じでないことにだんだんと気づいていった。1587年バレンシアでモスリコ(カトリックに改宗したイスラム教徒を先祖に持つ者)の女性ファナ・ロバが告発されたが、それは次の発言をしたからである。「ローマでは教皇様が、誰もが自分の信じる教えに従って生きることをお認めになっているのに、どうして[スペインでは]事情が違うのでしょう?」

要するに、イベリア半島における異端審問権限の乱用は、宗教的理由ではなく政治的動機によるものであり、だからイベリア両国の異端審問を語っても、反カトリック的な非難になるとは限らない。迫害は、スペイン人やポルトガル人あるいはカトリック信者の専売特許などではなかった。民族や宗教にかかわらず、誰もが手を染める恐れのあるものだった。
(同 p31-33)


ちなみに僕が子供の頃、はじめて魔女狩り・異端審問の恐怖を見たのはこれですね。

*1:スペイン本国の異端審問最高会議