表紙怖すぎ。元のタイトルは「闇の説得術」。20世紀初頭から時代を追って、様々な国、場所、集団にスポットを当て「洗脳」を追う。ホラーではない
なるほど、と思った2点
- 自白は、とくに強制された自白は役に立たない
- 洗脳の要諦
- 恐怖、睡眠遮断、日誌と自供、家族や友人からの隔離、訊問者の忍耐、訊問者が寛容と暴虐を使い分ける、秘密性、法的保護の剥奪
概説を知りたかったのだが、この分野はもっとコンパクトにまとまった本が無いのかもしれない。長かった。
こんな時間に書いている事自体が、体に良くない
洗脳の要諦の逆を行うことが、健康な精神と肉体には必須といえる
- 快活・熟睡・対等の立場・親しい人たちとの日常的なふれあい・不快な他人とは短時間の接触・尋問者が分け与えようとする秘密は罠・法的、肉体的、精神的な権利の充足
上記を妨害してくる他人は、悪く言えば「洗脳」、言い方を変えると「操作」しようとしている
- 残業続きはその時点で、恐怖・睡眠遮断・家族や友人からの隔離・秘密の共有(労基署に)・法的保護の剥奪 なので、進んでやっているのでない限り、犯罪に巻き込まれている
そういえばケストナー「真昼の暗黒」ではソ連の冷酷な尋問者が、自身の経験を踏まえた独白で「人間は痛みを耐え続けることはできない。必ず限界値があって、そこを超えると意思は役に立たない」というようなことを言っていて(手元に本がないので。再販希望)、そうだよな、と思った
- 「1984」はすごい小説だが、自分は「真昼の暗黒」のほうがリアリティを感じた。
他人の操作のノウハウは、国家・思想団体・宗教・犯罪者・企業・あらゆる場所、あらゆるレベルで求められ、研ぎ澄まされている
賢人のお言葉
人生 yak shaving ですよw
座右の銘にしよう。
「作業」にハマっているときに良く思い出す本の一節
プログラミングによる問題解決の学習は、どうしてこんなにも難しいのだろうか?
その理由のひとつは、「問題解決」と「プログラミングの学習」が、まったく異なる活動だからだ。それぞれ脳の違う部分を使う活動になる。プログラミング言語の構文を覚えたり、プログラムを読んだり、APIの構造を覚えたりするのは、どれも「左脳型」の活動だ。一方、これまでに学んだツールやスキルを使って、新たなプログラムを書くのは、クリエイティブな「右脳型」の活動になる。
たとえば、雨どいに落ちた木の枝を取り除くことになったとしよう。手元にあるはしごは長さが足りず、枝まで手が届かない。ガレージに行って何か道具を探すか、複数の道具を組み合わせるなどして、雨どいから枝を取り除きたい。はしごを伸ばすことはできるだろうか? はしごの先に何かをくっつけて、枝を押し出したりつかんだりすることはできるだろうか? そんなことを考えるよりも、別の場所から屋根に上って、そこから枝を取ればいいのである。これこそが問題解決能力であり、クリエイティブな活動だ。信じられないかもしれないが、新しいプログラムを設計するときの思考プロセスは、雨どいから枝を取り除く方法を考えているときとよく似ている。そしてそれは、forループのデバッグするときの思考プロセスとはまったく異なるものだ。 (V.Anton Spraul “プログラマの考え方がおもしろいほど身につく本 問題解決能力を鍛えよう! (アスキー書籍)” イントロダクションより抜粋)
雨どいの下で、延々と「工夫」を繰り返していることが多いです。
これではしょーもないので、作業の時間と問題解決の時間をタイマーで強制的に区切ってます。
「観光化」を考えるための資料
文系の学問もジャーナリズムもアートも、いまや当事者の声に寄り添うだけのものになり果ててしまったというのが、ぼくの理解です。むろん例外はいるけれど、大勢は明らかにそうです。
— 東浩紀 hiroki azuma (@hazuma) 2015, 6月 15
でも、当事者の声に寄り添うのは自殺行為です。当事者の声が大事ならば、当事者が作品作ればいい。ブログ書けばいい。映像流せばいい。学者もジャーナリストもアーティストもいらいんだよね。そして実際にそういう流れになっている。
— 東浩紀 hiroki azuma (@hazuma) 2015, 6月 15
そういう状況への回答が「観光客として振る舞うこと」という倫理なわけです。こういうこと記すと必ず「みなが観光客になれるわけじゃない!」という批判が来るのですが、ぼくは別に、みなが観光客になれと言っているわけではありません。ただ、知はそうしないと生き残れないと言っているだけです。
— 東浩紀 hiroki azuma (@hazuma) 2015, 6月 15
色々と考えさせられるので、あとで検討したいです。好意的です。
Shirobako見終わった。
見始めたら止まらなくなった。 良かった。
「良い戦略 悪い戦略」の、最も根底にある考え方
「良い戦略、悪い戦略」
良書だと思います。何度も読み返している。本書の根幹
以下の抜き書きが、本書のすべてを貫く思想だと思う。 本書のどの部分を読むときでも、この考えを念頭に置くことが大事だと思う。
第1部で繰り返し述べたように、ごくおおざっぱに言えば、良い戦略とは
最も効果の上がるところに持てる力を集中投下することに尽きる。
(p.134)
矛盾する目標を掲げたり、関連性のない目標にリソースを分割して配分したり、相容れない利害関係を無理に両立させようとしたりするのは、
資金も能力もあるからこそ出来る贅沢
である。だがそれはどれも悪い戦略だ。にもかかわらず、多くの組織が的を絞った戦略を立てようとしない。あれもこれもと欲張りなリストを作成する一方で、リソースを集中投下して組織本来の強みを発揮する必要性に眼をつぶっている。良い戦略に必要なのは、さまざまな要求にノーと言える
リーダーである。戦略を立てるときには、「何をするか」と同じくらい「何をしないか」が重要
なのである。 (p.34)
資金も能力も潤沢にあるのなら、戦略など必要ない。
制限があるから戦略が必要
となる。
根幹を踏まえて
その上で
、具体的な戦略の建て方が示される。
短期的には、手持ちのリソースを活かして問題に対処するとか、競争相手に対抗するといった戦略が取られることが多いだろう。そして長期的には、計画的なリソース配分や能力開発によって将来の問題や競争に備える戦略が重要になる。いずれにせよ良い戦略とは、
自らの強みを発見し、賢く活用して、行動の効果を二倍、三倍に高めるアプローチにほかならない
(p.134)
手持ちのリソースが無限なら、行動の効果を何倍にもする必要はない。そこに知恵を絞る必要はない。 手持ちのリソースに制限があるから、その特徴(強み)を捉え運用(活用)を工夫して、通常より高い効果を引き出す必要が出てくる。
あっちこっちに手を出して力を分散させることが「リスク回避」になるのは、もともと大量のリソースを持っている人や組織だけ
だ。
そうでないのに、そのように行動してしまう。じぶんは「特別」だと思って。
逆に、 リソースを無限に持った特別な人間には戦略は必要ないのかも
しれない。
制限ある自分
自分のリソースは無限だろうか?全方位に有効だろうか? そうでなければ、強みはどこで、弱みはどこだろうか。