reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

ゼロ年代の想像力へ−中心的な権力が、想像的な次元で崩壊する、そのことを自明とした受け入れ

エヴァ」で示されたのは、「ひきこもり系」だけだったわけではない。
それまでのアニメは、ロボットに乗り、敵に勝つことが「大きな物語の受け入れ」=「象徴的同一化を果たす」ことだった。
しかし、「エヴァ」では主人公のシンジはそれを拒否して自己にひきこもる。
シンジに示された問いは、「戦うか戦わないか自由に選んでいいが、正しい方を選ばなければならない」という問いだった。これに対してシンジは正しくない方=逃げるを選び、且つその絶え間ない自己肯定を行うという方向に走った。これは、要するに強迫神経症的な身振りである。
エヴァ」のチルドレンたちは、同様にこの問いを突きつけられ、それぞれのやり方で答える。アスカは戦うことを選び、且つ壊れる。これはヒステリー症者の身振りである。ヒステリー症者は、失われたもの(固い自己)を別のもの(戦うという身振り)で埋め合わせようとする。この埋め合わせはうまくいかず、つねに戦い続けることになり、それは壊れることを意味し、また望む。しかし、アスカの生き方は、アスカの主観では「決断主義」そのものである。

しかし、アスカを宇野氏が示している「ゼロ年代の想像力」という「決断主義」と同一視することは出来ない。アスカは、その尻尾を握られている。エヴァは自由にはならない。不確定な使徒という存在がありながらも、ネルフを頂点とする第三新東京都のピラミッド型構造は変わらない。だから、アスカが自由に選択できるのは、「戦うか戦わないか」であって、その選択には(ネルフあるいはゼーレ直接はゲンドウのために)という主語が隠れている。
ところが、「ゼロ年代の想像力」では、この(○○のために)というピラミッド型構造自体が崩れてしまっている、と言っている。

しかし、このこと自体はそれほど重要ではない。

問題は、「エヴァ」を観た視聴者が、「エヴァ」から何を受け取ったのか、だ。示されたものは多数ある。しかし、受け取ったのは「ひきこもり系」という選択肢だった。また、アスカからは「決断主義」ではなく、ヒステリーという絶え間ない自己確立とその崩壊だった。
シンジであれアスカであれ、そこから想像力を働かせて、大きな物語から逃げる=ひきこもり系を選ぶのか、戦う=大人になり狂うことを選ぶのか、その選択をしたのは、あるいはその選択しかないと考えたのはオタクたち視聴者なのだ。
視聴者に責任がある、とかそういう議論をしているのではない。人は自分の観たくないものを見落とす。これはフロイト以来の常識だ。だから、オタク内では「観たくないもの」を見落としたし、複製再生産されるものにはそれは含まれないのは当然なのだ。

宇野氏の議論に沿って言えば、「ゼロ年代以前の想像力」では、「大きな物語の凋落」とは、まだ大きな物語が残存であれ想像の中に存在し、それを無意識に抑圧するという身振りこそが主体を形成していた。

しかし、「ゼロ年代の想像力」では、本来オタクが無意識に抑圧し排除するはずの、「大きな物語」が、想像の中ですら無くなってしまっている。完全にバトルロイヤルになってしまっている。主体の形成は、「大きな物語」に対する反応としての身振りではなく、単一的な権力が存在しない不確定な状況に反応する身振りによって形成されることになる。
重要なのは、これを、オタクおよび市場の側が受け入れている、ということだ。このことに批評は敏感にならなければならない、これが宇野氏の主張ではないか?そして僕はこの主張を非常に面白いと感じた。