reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

SFマガジン連載「ゼロ年代の想像力」を読む。

ようやく読み始めた。これは衝撃的だ。
図書館で読んだ。時間がなかったのとその場に無い号があったので、第1回と第3回しか読めなかったが、第1回でアウトラインを書いてあるのでわかりやすかった。なるほど、コレは面白い。東浩紀氏の「批評」に挑戦状を叩きつけたわけだ。*1そして、この95年〜と00年〜の「想像力」を比較しているところがなかなかイイ。かなり目が覚めた気がするよ。
ゼロ年代の想像力」というのがぶっちゃけ非常に野蛮で稚拙で動物的で、ひきこもり系とは隔絶していることはよくわかった。すでに第三者の審級自体が問題にならない世界に生きているという想像力。これはとても暴力的だ。ここに警鐘を鳴らさずに、第三者の審級から逃げる「ひきこもり」の態度を批評家がとり続けていいのか?と問うている部分はなるほど、思う。そして、この「ゼロ年代の想像力」という次元では、すでに批評すら成り立たないという前提に立って、文章をあえて理論的に破綻するように記述している点が非常に斬新だ。宇野氏は、批評の言葉も(当然のことながら)同時に問題にして、それを実践的(パフォーマティヴ)に記述することによって批判しているわけだね。なるほどなるほど。

まぁ、「セカイ系」はイコール「ひきこもり系」なのか?とか、TYPE-MOONの作品はどれも「セカイ系」であって、月姫もフェイトもそんなに変わりない気がする、とか、色々言いたいことはあるけどね。
セカイ系」が

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合(wikipediaセカイ系」の「狭義のセカイ系」より)

には、ひきこもり系だろうがサバイブ系だろうが全部「セカイ系」の中に含まれてしまうのではないかな、という懸念は持ってしまう。
対峙すべきはひきこもり系と決断主義であって、セカイ系決断主義ではないと思うんだ、やっぱり。決断主義もやはり社会を飛び越えてしまう(と言うより想像的にも前提にしていない)ことからセカイ系に分類されてしまうと思うんだよね。というか、「決断主義」もまた、「大きな物語の凋落」に対する反応の1形態だと思う。力が内ではなく外に向いているという点でひきこもり系とは決定的に異なる、野蛮で危険なものとして。

決断主義」については、歴史は繰り返す、という気がしてしまう。カミュの「異邦人」の大ヒットがこれに対応している気がする。

この物語は、成熟を促す父権的大気圧の下で萎縮していたヨーロッパの若者たちの欲望に点火した。
「私は『大人』になりたくない」この「禁断の言葉」を語ったことによって『異邦人』は歴史的ベストセラーになったのである。
(「現代思想のパフォーマンス」難波江和英・内田樹著p352)

ところで、この論文の中でも上げられている「リアル鬼ごっこ」のAmazon書評を読んだが、こんなに面白いとは知らなかった。

*1:宇野氏は「東浩紀劣化コピーたち」という言い方をしている。