reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

父無き世界で全体を俯瞰するためにはどうすればよいのか


フランスの68年学生暴動が起きたときに、ラカンが「彼らは新しい父を求めているに過ぎない」と吐き捨てたことを思い出しました。

権威とは、それを権威だと感じる人間の側から見て、「権威」なんですね。


で、なんというか、果たして成長に「権威」=「父」=「ロールモデル」は必要なのでしょうか?


また、「権威」というものがなければ、人は俯瞰的にものを見ることが出来ないのでしょうか?

「父」とは「聖なる天蓋」のことである。
その社会の秩序の保証人であり、その社会の成員たち個々の自由を制限する「自己実現の妨害者」であり、世界の構造と人々の宿命を熟知しており、世界を享受している存在。
それが「父」である。
「父」はさまざまな様態を取る。
「神」と呼ばれることもあるし、「預言者」と呼ばれることもあるし、「王」と呼ばれることもあるし、「資本主義経済体制」とか「父権制」とか「革命的前衛党」と呼ばれることもある。
世界中の社会集団はそれぞれ固有の「父」を有している。
「父」はそれらの集団内部にいる人間にとって「大気圧」のようなもの、「その家に固有の臭気」のようなものである。
それは成員には主題的には感知されないけれども、「違う家」の人間にははっきり有徴的な臭気として感知される。
「父」は世界のどこにもおり、どこでも同じ機能を果たしているが、それぞれの場所ごとに「違う形」を取り、「違う臭気」を発している。

キリスト教文学では「神」との、イスラム文学では「預言者」との、第三世界文学では「宗主国の文明」との、マルクス主義文学では「支配階級」との、フェミニズム文学では「父権的セクシズム」との、自然主義文学では「家父長制度」とのそれぞれ確執が優先的な文学的主題となる。
いずれも「父との確執」という普遍的な主題を扱うが、そこで「父」に擬されているものはローカルな民族誌的表象にすぎない。
作家のひとりひとりは自分が確執している当の「父」こそが万人にとっての「父」であると思っているが、残念ながら、それは事実ではない。
彼の「父」は彼のローカルな世界だけでの「父」であり、別のローカルな世界では「父」としては記号的に認知されていない。

人間は「父抜き」では世界について包括的な記述を行うことができない。
けれども、人間は決して現実の世界で「父」には出会えない。
「父」は私たちの無能の様態を決定している原理のことなのだから、そんなものに出会えるはずがないのだ。
私たちが現実に出会えるのは「無能な神」「傷ついた預言者」「首を斬られた王」「機能しない『神の見えざる手』」「弱い父」「反動的な革命党派」といった「父のパロディ」だけである。

「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」
これが村上文学に伏流する「問い」である。
「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。
「正否」の絶対的基準がない世界で「正義」を行うこと。
それが絶望的に困難な仕事であるかは誰にもわかる。
けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面している・・・という感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されている。

「権威」というローカルな父に同一化し、その父として振る舞うことは一つのマッピングの方法ですが、これだけ世界情勢が混沌とし、知的な分野でも構築主義によってあらゆる「価値」が「歴史的に構築されたものに過ぎない」とされているのに、あくまで「父」にこだわり、その父との差分において自らをマッピングしていくという行為は、今後続けられていくべきものなのでしょうか?


具体的には、弾さんの親としての取り組みは正しいと思います。


けれども、それはまた一つのローカルな「父」を生み出す行為であり、ローカルな「マップ」を作る行為になると思うのです。


ゼロ年代を生きる彼ら彼女らに必要なのは、そういうマップなのでしょうか?