ぼくがちゅうにびょうだとかんじるぶんしょう
中二病はかっこいいと思うよ。ほんとうに。
「中二病*1」というと、ラノベやアニメの世界観にハマりすぎて自分もまたその世界観の一部になろうとすること、のような解釈がここ数年で一般化したみたいですね。
出始めの頃は、「ラノベやアニメ」「SFやファンタジー」という、いまここの世界ではない世界を志向することは必須ではなかったし、今も、そういう世界への志向は、「中二病」のひとつのありかただろうな、と思います。
ラノベやアニメの主人公と同一化するのは、そうすることで「現実」をチートしたい、という欲望があるから、だと思う。
「チート」ってのは、目標への道のりを何らかの正規でない手段でチートする方法、と、僕は理解しています。
「中二病」が「現実」を「チート」できると、少なくとも本人に感じられるのは、たとえばラノベやアニメの主人公と同じ行動を取ることで、実際に世界を変えられることを信じているわけではなく、ラノベやアニメを見た感動を感じた自分、という「まなざし」からみて、好ましい姿を取りたい、と思うからでしょう。
中二病が恥ずかしい、と、あとから思うのは、その「まなざし」が変化(成長)するに従って、その「まなざし」に耐えられなくなっていくのだと思う。
「現実とのおりあい」というのは、その「まなざし」と自分自身が同一化すること。
つまり、もはやアニメやラノベの世界観の中にいなくとも、どうすればその感動を伝えられるか、や、現実との折り合いをどうつけるか、理解するからかと思います。
たとえばこんなふうに。
「自分は、顔も良くなければ背も高くなく、異能をもつわけでもない。けれども自分は、自分自身の主人公として十分にやっていけるほど、顔も良くなければ背も高くなく、異能も持っていない。」
「中二病」という言葉が使われ始めたころは、どちらかというと、今の社会に少し斜に構えたり、社会を変えることを本気で考えたりすることを指し示していた気がします。
若気の至り、というやつか。
そういう意味で、「現実」をチートしたい、という願いを書いた文章が中二病なら、こういう文章こそ中二病的ではないのかな。
かつて僕はこの文章を印刷して壁に貼っていたよ。
どっちかというとファンタジー寄りかな?
人間は孤独であると同時に、関わり合って生きている。彼は独自の存在であるために、すなわち、他の誰とも同じではなく、離ればなれの存在であるところの自己を知っているために、孤独なのである。
人間は自分の理性だけに頼って判断したり、決心しなければならぬ時には、孤独でなければならない。しかもなお彼はその孤独に、いいかえれば人間仲間との関わり合いを持たずにいることに耐えられない。彼の幸福は人間同士、および過去の世代と将来の世代とともにいることによって感じられる連帯感に依存しているのである。
矛盾に直面すると受身のままにとどまることが出来ないのは、人間精神の特性の一つである。矛盾を説こうとして、それは動き始めるのである。人間が進歩するのはこの事実があるからである。もし人間が、その矛盾を悟りつつ行為によってそれに反応することが妨げられるとしたら、その矛盾の存在そのものが否定されなければならない。調和し、否定するために、矛盾は個人生活および社会生活におけるいろいろな理念(社会の型として作り出された合理化)として、合理化の機能を果たす。しかし、もし人間の精神が合理的な答えによってのみ、すなわち真実によってのみ満たされるとすれば、そういった諸理念は効果を持つことはできない。しかしながら、同じ文化に属する多くのものが共有する思想、または強力な権威によって要請される思想を真実であるとして承認することもまた、人間の特殊性の一つとして数えられる。もし調和させようとする諸理念が人々の一致によって、もしくは権威によって支持されるならば、人間の心は完全に安まったわけでもないのに、なだめられてしまうのだ。
人間は自らの行為によって、歴史的矛盾を解消するように反応することができる。しかしながら、実存の二分性(引用者注:たとえばひとは必ず死ぬ)に対しては、種々の仕方で反応できるにもかかわらず、これを完全に解消することができない。人は、沈静させ、調和させるいろいろな理念によって自分の心をなだめることができる。快楽や仕事のために絶え間なく活動を続けることによって、焦燥から逃れようと試みることができる。自らの自由を放棄し、自己の外なる力に自らを委ね、自ら溺れようとすることもできる。それでも彼はやはり不満であり、不安を感じ、いらいらし続けるのである。
彼の問題には解決はひとつしかない。それは、真実に直面し、自己の運命とは無関係な宇宙の中にあって、もともとひとりぼっちであり、孤独なのだということを認め、決して自分の問題を解いてくれるような自分を超越した力があるのではないことを承認することである。人間は自己自身に対する責任と自己の力の使用によってのみ、自分の生活に意味を与えることが出来るのだという事実を承認しなければならない。しかし、意味は確実さを保証するものではない。実際、確実さへの探求は意味への探求を損なうものである。むしろ不確実さこそ、人間をして自己の力を展開させる条件なのだ。もし人が破局に陥らずに真実に直面するならば、次のことを認識するであろう。それは、人生には人が自分の力を展開することによって、つまり生産的に生きることによって自ら与える意味の他には意味はないことおよび、絶え間ない監視、活動および努力だけによって我々は重要な一つの課題ー我々の存在の法則が定める限界内で我々の力を完全に展開することーを、失敗せずにやり通す努力ができることである。人間は当惑したり、疑ったり、新しい疑問を発したりすることを決してやめないであろう。人間が人間の実態を認識するときにはじめて、自己の存在と、自己の力を展開する能力のうちに本来備わった二分性は、次の課題を遂行することによって解決されるであろう。その課題とは、彼はほかならぬ彼自身であり、また彼は彼自身のために存在するのだということ、および彼の特別な能力ー理性と愛と生産的仕事というーの完全な実現によって幸福を手に入れるのだと、ということである。
(E.フロム「人間における自由」より)
「人間における自由」は、E.フロムの代表作「自由からの逃走」の次の著作として刊行されました。
「自由からの闘争」は、ナチス・ドイツが成立する精神構造を、近代における人々の封建制からの解放、そして自由が、自身のアイデンティティを確立しなければ「ならない」という脅迫的な要請を人々につきつけたとき、そこから人々はいかにして逃走し、いかにして「だれかの保証」得ようともがき、結局強い個性であるナチスに惹かれていった経過を克明に解析した、「自由とは現代人にとってどういうものか」を記した古典ですが、「人間における自由」ではこの点への追求をさらに進めた著作で、一時期僕はかなり読んでいました。
まぁ、あんま読むもんでもないかもしれないけど。