reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

観測者は観測対象の彼岸に至ることは出来ない

メモ:


真偽論争を始めると、共通認識としての事実Aに対して、B'、B''、B'''などの仮説が立てられた時、それらの仮説をさらに発展させたB’→C、B''→D、B'''→Eや、それらの派生のB'→C'などは、ひとつの仮説が共通認識となることで消えてしまう。もしくは見えにくくなる。壁ができる。


A→B''の因果関係が「共通認識」となったとして、そうなると仮説はDだけが生き残り、CやEは、すでに葬られたB'やB'''を前提として話さないと話が進まないし、そこで派閥ができると「踏み絵」を踏むことになる。


A→B'→CにたいしてA→B''→Dを併記する、という書き方は、あんまり洗練されていない。一つにまとめると長いし、ハイパーリンクは情報が飛び飛びになってわかりにくいし再現性がない。トラックバックには「編集機能」、たとえば先読みの機能がない(TBは発展性があると思う)


多くの人に編集され、多くの論が壁されているwikipediaにしても、主流の考え、その他の考え、という、ひとつの「編集」様式で書かれていて、その編集様式自体を変えるには、下敷きとなっている「仕様」を変える必要があるので、これまでの「紙文化」の延長線上にならざるを得ない。


ここ洗練して、その編集行為がメタ的な視点から再読できるような、「経験の再生」を可能にするような方法は、むしろゲーム分野で蓄積されてきたのだろうと思うけれど、「誰でも簡単に編集」ができるようになってくると、たぶん「編集の仕方」の経験を再生できることが重要になる気がする。


編集によって事実が作られるとして、「強い真実」は「強い編集」によって支えられてきて、「真実」によってアクセス出来ない情報は、「情報そのもの」よりも、「『強い編集が事実を支えている』ことが誰にでも経験可能ではない」ということだったけれど、たぶん今の技術だと経験可能になる


A→B'→Cという因果関係が主流になったとして、A→B''→Dという因果関係を並列させると、「主流である」という経験が抜け落ちて伝わる。「併記」というとき、「読み方」まで規定しないと、「経験の再現」ができない。たぶん、A→B'→Cとは全く切り離してA→B''→Dが現れないとダメ


さらに、ある時点でF→Gという因果関係が重要だとわかって、しかしそれは主流であるA→B'→Cからは導きだされずに、A→B''→Dの先に、その「編集様式」にそって仮説を立てて(偶然にも)現れたとして、A→B''→Dは少数派なのだからF→Gが理解されるには大量のリソースが必要になる


「大量のリソース」には金の匂いがする


ここらへんの「一部の優秀な人の想像力」でしかカバーできず、リニアな記述が基本でハイパーリンクを使っても「見通しの悪い」紙文化を(紙文化産業ではなく)、技術的に突き抜ける先がある気もする。P17nとかA.D.M.Sを文化的な記述に応用して、それがきちんと再現可能になるような。


編集手段が情報処理技術の発展によって可視化されるが、たぶんそれは「壁」を壊すことなので、それするとたくさん困ることも起きそうだから、ゴニョゴニョ。