「空論」と「なまぐさい話」
僕らは、どこかで社会的な役割を果たした夕べに、仮面(ペルソナ)を付けて、茶室やラウンジやバールで言葉を交わします。
戦国武将が、茶室の中だけは敵同士であっても争いから離れ、一個人として向かい合うように。
茶室の外では殺しあうわけです。
ぼくらが議論する「対象(オブジェクト)」は、実際には、会社員や学生、兵士や商店主、親や子、という現存の社会での役割を、
つまり「臣民(サブジェクト)」としての役割を果たすことが前提、となります。
「サブジェクト」という言葉は、「臣民」とも「主体」とも訳せ、同時に二つの意味を持っています。
ぼくらは、夕べに語らう時、「主体(サブジェクト)」としては無名の存在として、「対象(オブジェクト)」について語るのですが、「対象(オブジェクト)」の実体は、僕らが社会的役割を果たしている時の、社会的身体である「臣民(サブジェクト)」です。
夕べの僕らが語っている対象(オブジェクト)は、日中の僕らなのです。
言い方を変えると、その役割(私的世界)から一歩引いて、茶室(公的世界)で語るんです。
茶室の議論も、自分がどう生きていくかの立論と実践も、それぞれ大事。
だけれど、茶室(公的世界)の議論と昼間の自分(私的世界)を完全分離して語ることもまずいし、昼間の自分(私的世界)を引きずったままでは茶室(公的世界)での振る舞いが出来ない。
茶室の自分と「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」である自分を、分離しつつ関係付けて話す必要がある。
そして、そうしている人がほとんどなんでしょう。
それならいいんだけれど。