reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「空論」と「なまぐさい話」

僕らは、どこかで社会的な役割を果たした夕べに、仮面(ペルソナ)を付けて、茶室やラウンジやバールで言葉を交わします。


戦国武将が、茶室の中だけは敵同士であっても争いから離れ、一個人として向かい合うように。

茶室の外では殺しあうわけです。


ぼくらが議論する「対象(オブジェクト)」は、実際には、会社員や学生、兵士や商店主、親や子、という現存の社会での役割を、

「自分の生まれた国の慣習と法を、その権威に疑問を抱くこと無く受け入れ、従う」
デカルト方法序説」)

つまり「臣民(サブジェクト)」としての役割を果たすことが前提、となります。


サブジェクト」という言葉は、「臣民」とも「主体」とも訳せ、同時に二つの意味を持っています。


ぼくらは、夕べに語らう時、「主体(サブジェクト)」としては無名の存在として、「対象(オブジェクト)」について語るのですが、「対象(オブジェクト)」の実体は、僕らが社会的役割を果たしている時の、社会的身体である「臣民(サブジェクト)」です。


夕べの僕らが語っている対象(オブジェクト)は、日中の僕らなのです。


言い方を変えると、その役割(私的世界)から一歩引いて、茶室(公的世界)で語るんです。


茶室の議論も、自分がどう生きていくかの立論と実践も、それぞれ大事。


だけれど、茶室(公的世界)の議論と昼間の自分(私的世界)を完全分離して語ることもまずいし、昼間の自分(私的世界)を引きずったままでは茶室(公的世界)での振る舞いが出来ない。


茶室の自分と「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」である自分を、分離しつつ関係付けて話す必要がある。


そして、そうしている人がほとんどなんでしょう。


それならいいんだけれど。