自分の過去の言葉に応えられるかな?
自分の過去の記事を振り返る。
職業選択の自由、移動の自由などが保障されているとはいえ、何かことが起きたときにすぐ職を変え、住む場所を変えることはとても難しい*2。
「ムラ」が至る所に形成され、人はそこに束縛されている。これだけ職業や移動が自由になったのはごく最近のことだ。
人はどこかのムラ(職場・地域・労組・宗教団体・親族 etc...)に所属し、そこで生きていくしかなかった。
日本では、諸外国ならあり得ない密着した関係が築かれている。だから「カローシ」は国際語になった。
耐えて耐えて耐えて、嫌な集団の圧力に耐えて、生き抜いて身についた作法が、ただ集団の圧力に屈して耐えるだけ、というのではあまりに救われないのではないか?
耐えることと、楽しく生きていくことは全くベクトルが異なる。耐えないことが楽しく生きられないことではない。
そこに固執すれば、それは生きていく指針になってしまう。
他人は残酷で、自分には生きていく場所が無く、自分はお情けで生かしてもらっていて、この世界はくそったれで、こころを通い合わせる人間などはいない、と思いこんでしまう。
そしてやもすると、その暴力を別の人間に向けてしまったり、自分自身に向けてしまうのだ。暴力の連鎖。
そんな場所とは関係なく、楽しく人生を謳歌している人たちはいるのだ。その輪の中に、その子だって入っていいのだ。
むしろ、今現在自分の身に降りかかっていることは、全く原因のない邪悪な暴力であり、「それ」は交通事故のようなもので、一刻も早くそこから逃げ出して、そんな暴力に自分自身の人生を弄ばれないことを知ることが大切ではないか?
頭のおかしい人は少数だが世の中にはまんべんなくいる。
この人たちは少数だがとても力を持っていて、周囲の人間に絶大な力を及ぼす。
そういうクレイジーな人間たちに、まともな大人たちが隠れてしまっている。
いじめられている子どもたちのもとに、そのまともな大人たちがいてくれることを祈る。
僕も、大人として、出来ることをしたいと思う。
さて、この言葉に、僕自身が応えられるかな?