reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「商品」の存在は「労働」の存在と一致している

404 Blog Not Found : なぜ「「暇つぶし」のために働いていると言わないのが「普通」なのかさん

「『働いている』人なんて元々存在しない」という「公理」

揚げ足を取るようで申し訳ないのですが、「労働」は存在しますよ。


その前に、エントリに対しての返信を先に書きます。

ベーシックインカム」については私は全面的に賛成です*1
(私の過去記事

死ぬほど働く今の状態はアホらしいと思います。

死ぬほど働いたところで何一つ重要なものは生み出せていないし、「商品」のニーズが、マズローの言う「欲求段階説」で言えば、すでに「安全の欲求」をクリアしたものであるべきだとおもうので、本文の「どれだけ楽しませるか」という言葉には賛同します。

「商品」が生産されている限り、「労働」は存在する

さて、「誰も働いている人はいない。人間は、自然から収奪している」というのが、小飼さんの主張だと思います。

しかし、「資本論」でも言及しているように、「商品」が存在することイコール、「自然」が「労働」によって変化させられている、と言うことになります。

資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、「商品の巨大な集積」として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる。


商品は、まず第一に、一つの外的対象であり、その諸属性によって人間の何らかの種類の欲求を満たす一つの物である。


交換価値は、さしあたり、一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち比率として現れる。


商品は、二面的なものとして、すなわち使用価値および交換価値として、われわれの前に現れた。後には、労働もまた、それが価値に表現される限りでは、使用価値の生みの母としての労働に属するのと同じ特徴を、もはやもっていないということが示された。商品に含まれる労働のこの二面的性質は、私によってはじめて批判的に指摘されたものである。


人間は、彼の生産において、自然そのものがやる通りにふるまうことができるだけである。すなわち、素材の形態を変えることができるだけである(13)。それだけではない。形態を変えるこの労働そのものにおいても、人間はたえず自然力に支えられている。したがって、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティが言っているように、労働は素材的富の父であり、大地〔Erde〕はその母である。
「資本論」第1部 資本の生産過程 第1編 商品と貨幣 第1章 商品より

「商品」とは、「使用価値」と「(交換)価値」を持つものであり(商品の二面性)、「使用価値」とは、人間が持つあらゆる欲望に応えるものです。

だから、売春も商品であり、殺人も商品です。


また、「(交換)価値」は、ものごとが交換されるうえで存在する概念ですが、それは、共通の尺度=どれだけの社会的労働時間が費やされたか、によって決まります。


別に資本主義でなくとも、「交換」がそこに起きる限り、「商品」は無くなりません。


そして、小飼さんは当然ご存知の通り、「交換」とは、人類の相当初期の頃から行われている行為です。

というより、「交換」によって、人類が「人類」となったと言えます。


レヴィ=ストロースが明らかにしたとおり、人類は、「言語・女性・貨幣」を交換することで社会的な存在たり得ています

人間が、動物と異なる自我を持った存在としての「人間」であるかぎり、「人間」が行う「労働」は、「商品」という交換財を生み出すためには不可欠のものです。


「商品」がやがて資本に転化し、労働者からの搾取を通して富を集約し、地代・利子・剰余価値という三源泉をもって労働者からの富の収奪を行っているのが資本主義社会です。


資本主義社会にならずとも、交換を認め、「商品」が現に存在している以上、人間は「労働」により、自然を意図を持って変化させ、「商品」にしているということに間違いはないと思います。


長々書きましたが、つまり、「労働」は存在します。「商品」が存在する限り

そして「商品」という交換財、その究極の姿は貨幣ですが、それが存在すると言うことは、「労働」は確かに存在するのです、ホモサピエンスが「人間」である限りは

「労働」が、たんなる「アリバイ作り」に堕した現代

しかし、僕はそれはそれとして、小飼さんの意見には賛成です。

僕が言いたいのは、この複雑化した社会では、「働く」という行為が、結局のところ直接的な「自然を労働によって変化させる行為」などではなく、単なるアリバイ作りに堕している、と言うことです。

労働に生きがいなんてあるわけがない。だって、労働なんて、金銭を得るための言い訳作り、アリバイ作りなんだもの。

そんなばかげた「労働」で、身をすり減らす必要なんて無いし、ましてや死ぬ必要なんてこれっぽっちもないです。

もしそこまで追い詰められているとしたら、それは嵌められているのだとおもいます。

「労働」を「暇つぶし」と客観的に思える希望

「労働」は、無駄な行為かもしれません。


それは、ナチスが行った拷問に似て、「意味もなく一日掛けて穴を掘り、翌日その穴を埋めさせる」行為かもしれません。

これはつまらない。意味のない行為。

こういう意味のない行為を延々とやらされると、人間は精神崩壊します。


ところが、ここに「仲間」がいて、「暇つぶし」と割り切って、その上で「どうやったらもっと効率よく穴を掘れるか」とか、「看守の目を盗むか」などのゲーム要素を入れた瞬間、このクソくだらない「拷問」が、魅力的な「労働」に変わります。


だから、現代の「労働」は、より「コミュニケーション」を大切にして、「高度な遊び」として行われるべきではないかと、私も思います。

*1:もっとも、その額と配布する範囲がもっとも問題なのですが