reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「あきれた」に誘導されるわたしたち-「シニシズム」とはなにか

シニカルに皮肉を言うことは、自由の発現のように見えて、実は最も不自由である、というはなし。

民衆の風刺としての「キュニシズム」

自分たちの力の届かない権力者の言葉や行動の「キレイ事」を、皮肉や風刺を通して、隠されている利己的な関心、暴力、権力欲を暴くことを「キュニシズム」といいます*1

権力者が「キュニシズム」を利用して打ち立てる「シニシズム

それに対して、「民衆が冷笑して無関心になってくれることで行動が取りやすくなる」という(意識的・無意識的な)判断のもと、皮肉や風刺で、それ以上の批判を封じてしまうのがシニシズムです。

シニシズム」は行動に根付く

たとえば「政治」を語るとき、僕らは「特定のモード」に入り言葉を紡ぎます。

その言葉は、たいていは「あきれた」「馬鹿馬鹿しい」です。


これが思考停止であることは明らかなのですが、それ以上踏み込むことは実は危険なことだと分かっているし、とりあえず「あきれた」と言っておけば、「仲間」からは排除されません

だから、僕らはたいていマイクを向けられたら、大きな存在である公的なもの、たとえば政治に対して「怒りを感じる」か、「あきれた」と言います。


こういう言葉は繰り返されることでその言葉の持つ意味自体よりも、「仲間である指標」として、いうなれば「たんなる音の並び」として、人と人の間で交換されます


こうなると、ほとんど脊髄反射と同じです。

「こんにちは」「こんにちは」というあいさつが「あなたに敵意はありません」という表明であるのと同じように。

用意されている「評論的」な言葉

 実際には、シニカルな態度は、大変似通ったことば−多くはテレビや新聞、ネットの「論壇」や掲示板−などで流布され、「はやりことば」として語られます。


じつは、シニカルな態度や発言は、そのひとつひとつが「発明」であり、誰かの創作です。

自然に現れるほど簡単に、批判の言葉は紡げません。

そして、意味のある言葉は、何かしらの意図を持って語られています。


その言葉を使うことは、意識せずとも、その意図にそって行動を行うことになります。


どんなにこむずかしく聞こえる言葉も、少し慣れると、単なる反復だからたやすく発言できます

「シニカルな言葉」は、屠ることに正統性をもたらす

しかし重要なのは、「その言葉がどのようにして生まれたのか」「そのことばは『キュニシズム』なのか『シニシズム』なのか」ではありません


その言葉が使われたときに、現実にもたらす効用です。


たいがいは、現実に困ったときに、そのような「シニカルな」、反論しにくい言葉は、相手を屠ることを正当化します。

距離を保ち、「バカ」と断定しラベリングすることで、発言者は「自分たち」と「彼ら」の間にはっきりと線を引きます


言葉の表層的な意味は、「愚か者」であり、その奏でる音の意味するところは「あいつは私たちとは違う」です。




それは、「だから屠られてもしょうがないでしょ?」という目配せです。



シニカルな言葉が世界を変える

しかしもっと大きな問題は、そのことでどのように世界が変わってしまうのか、です。

結論を言えば、「みんなはそれが『間違っている』と知っている。にもかかわらず、それを行う」ということです。


「あきれない」人間は、軒並みあざ笑われ屠られてしまうのですから、そのような世界が「間違っている」ことは自明なわけです。

しかし同時にその世界では、「あきれた」態度を取る以外の選択肢は無くなるのです。

見世物としての屠殺

このような息苦しい世の中では、「『間違ってる』と知っている」ことは何ら解決にはなりません。

だから、最も手近にある「シニシズム」という道具、つまり、


「あきれた」「バカが」「なんにも分かっていない」「結局◯◯もダメ」「バカだなこいつ」「はぁ?」


という言葉を使い、相手を攻撃し、自分が「わたしたち」の側にいることを確認し続けるのです。


「世の中は馬鹿ばかりで絶望した」という人は、心のそこから絶望しているのかもしれませんが、同時にサディスティックな欲望を満足させるために「シニシズム」という道具を嬉々として使っています。




煽り、呆れ、罵り、小馬鹿にし、はぐらかし、レッテルを貼り、etc...



「ビジネス」としての屠殺

そういった「シニカル」な言葉は、「エロ」とともに、人を最も動かします。


つまり、「ビジネス」になります


そのような「ビジネス」がまた、世界を「シニカル」な形に変えていきます*2


人が持っているサディズム性、すなわち、


 間違っていても、人は人を殺したい。
 間違っていても、人は人を犯したい。
 間違っていても、間違っているものを、見たい、晒したい、暴きたい。


という欲望です。


欲望は、ものごとが動くときに満たされます。


誰かが屠られるときに。


誰かが堕ちていくときに。


欲望が開花する瞬間は一瞬ですが、その連続によって「ビジネス」は支えられます*3


そして、世界は確実に変わっています。

ではどうするのか?

「シニカル」になってしまった世の中では、「シニカル」に生きざるを得ないという「システム」が出来ていて、これに抗うことは非常に難しいです。


では、どうしようもないのでしょうか。


そのなかで、自分の大切な人以外は「敵」と認識して、搾取するか攻撃を仕掛け殲滅するという行動が、実はみんな「最適」と分かっているだろうけれど、それを「シニカル」に、「そんなもんだよ」と受け取るのか。


時々出てくるおっちょこちょいの愚か者を吊るし上げて、サディスティックな楽しみにふけるのが「最適」でしょうか。


たまたま現れた「フリー」なサービスを遊んで、不満があれば叩いて終わりでしょうか。
世界はまるで「フロンティア」に溢れていて、それを発見されるのを待っているかのよう……そんな夢物語を信じ続けるのでしょうか?


「フロンティア」が誰によって作られたのかに目を向けることもないまま。

「自分は奴隷にならないから関係ない」のでしょうか?*4


まぁ、たいがいは、殲滅戦も、サディスティックにもならず、そういう「シニカル」な世の中をやり過ごして生きていくのが「普通」なのでしょうね……


*1:イデオロギーの崇高な対象」p.46-49

*2:「ビジネス」が全て悪いという意味ではありません。というより、「ビジネス」そのものに良い悪いは無いです。「悪いビジネス」はビジネスの外で規定されます

*3:常に動的な平衡としてしか「経済」(というより概念一般)は存在しません

*4:完全なる民主主義は、「奴隷になる平等」も保証されます。そこからの自由を保証するものは、「市場の不確実性」です。「完璧な制度」のもとでは、結論は常に完璧なので、人々はその結論に従うことは自明です。つまり、一種の「自己責任」となります。ですが、外部の不完全なシステムが原因なら、そこに責任は転化できます。「市場」が自由の基礎であるのは、「市場が不完全」であるからです