なぜ「失敗」するときに「意志」は立ち現れるのか?
「意識」とはなんでしょう?
それはどのようなときに発生するのでしょう?
一時間くらい車の運転を続けて、その一時間を全く覚えていないことに突然気づくときの感覚は、おそらく主体の喪失の経験に近いものだろう。ラカンの用語で言えば、あなたはこのとき自動人形となって、なにも考えずに自動的に、道路交通法というこの場合<symbolic>の一例であるものにしたがっていたのだ。運転中、あなたはsymbolic(記号)の一部となり、主体としては消えていた。しかし、対向車線のトラックが事故でこちら側の車線に突っ込んできたら、これはreal(現実)の侵入だろう。いったいどうしたらいいのか、ブレーキを踏むのか、ハンドルを切ってよけるのか、決めなければいけないし、こうした決断の瞬間、realの侵入にどう対処するかを選ぶときに、あなたはふたたび主体として立ち現れるのである。ジジェクはこの意味で、主体はsymbolicとrealのインターフェイスに、境界線に存在すると論じている。単純にいえば、ふたつの世界(realとsymbolic)のあいだになんの相互作用もないときには、主体はまったく存在しないのだ。
(「ジジェク」トニーマイヤーズ p35-36)強調筆者
「決断」が必要となる時だけ「意識」は生まれるようです。
そして、「対向車線のトラックが事故でこちら側に突っ込んでくる」という、事前の処理マニュアル(道路交通法とか、運転マニュアルとか、プログラムとかcodeとか)に書かれていない事態が起きたときに、コンピュータがスリープモードから復帰するように、「意識」が蘇ります。
realを直接把握することができるとすると、意識としての私たちは消え去ってしまうだろう、ということだ。すべてのものが正確に本来あるべき姿であり、すべてが十全につかみとれるものなら、つまりあなたが見る世界とわたしが見る世界のあいだに亀裂がないのなら……意味作用の連鎖は存在しない。その時存在するのは、realに対して完璧に対応したsymbolsだけだろう。われわれを人間にするのは、もっと正確にいえばわれわれを主体にするのは、意味作用の連鎖と、それに対してわれわれがおこなう決断なのだが、それらは消えてしまい、ということはわれわれも一緒に消えてしまう。
(同 p35)強調筆者
あらゆるものごとの「決断」を「外注」化したら、その人の「意識」は消えるのでしょう。
事前にすべてのものごとが自動機械化=code化され、そのcodeが状況に応じて自動生成するようになれば、「決断」は必要がなくなるのかもしれません。
そのとき、「一時間くらい車の運転を続けて、その一時間を全く覚えていないことに突然気づくときの感覚」の中に人はずっと居続け、「突然気づく」ことなく一生を終えるのでしょう。
異なる地域で異なる言語が使われるように、風習や文化が異なり判断も異なる場合は、codeも異なるでしょう。
しかし、それすら外注化し、code同士が調和し合うように(あるいは、「調和するためのすり寄せを永遠に続け合うように」−ものごとは全て過程にあります−)なれば、人間の「意志」は完全に外注化され、すべてcodeの処理に委ねられるのでしょう。
「完全に望ましい結果のみを選択することを欲する」なら、すべての決断をcodeに外注化するのが一番いいのかもしれません。
「意識」と「失敗」はトレードオフの関係にあるのでしょう。
「自由とは、失敗する可能性の自由のこと」なのかもしれません。