reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

下っ端に読書なんて要らない

晴耕雨読」というが、逆に忙しい時に真っ先に切り捨てられるのは読書だったりテレビだったりする。

レーニング全般も。無駄無駄無駄。

遊びも切り捨てられる。無駄だー。


次に睡眠時間が削られる。やる気見せろと。言い訳は睡眠削ってから言え、と。

結果出せ、と。


だが、睡眠時間を削ったら、体調おかしくなるのは当然。

レーニングしなければ、どんどん体力は落ちるし筋肉も硬くなる。

この二つは、だから「やらないとダメ」、と直感的にわかる。


しかし、読書や遊びは、むしろトレーニング的な位置づけにしないと、「インセンティブ」が湧かない。

誰も後押ししない。


読書も遊びも、時間と場所とある程度の支出が必要なので、「じゃ、やめとくか」となる。

やめといたほうが、賢い選択に思えるし、ともかく、じっとしているのはわかりやすい解決策だ。


大人になると、テレビも読書も大差ない。

パチンコも同じ平面にある。

テレビと読書に差をつけてるのは、下っ端の場合、「大人が子供に対してモノを言う場合」だけだ。


「勉強しろ」という言葉は「共同体の規範に従え」という警句のひとつで、それはありがたいこと。

だが、大人になると、そんな規範自体が消える。


大人になれば、誰も読書の後押しなどしない。

大人にとってテレビと読書の違いなど無い。

というか、どっちも「娯楽」にすぎない。


先日大工をやっている5つ年上のいとこが、このひとはとても良い人でぼくは好きなんだけれど、「職場に若いけれど変わり者がいる」と話していた。

曰く、「家にテレビがねぇんだと。で、仕事終わって帰ったら本読んでいるんだって。意味わからねぇよな」と。


下っ端はやることが山積みだ。

天下国家を語る暇など無い。

毎日が目の前の課題で忙しいのだ。


下っ端を駆動するのは「こころの声」だ。

「こころの声」は、こんな文章を読んでいる今だって響いている。


こういうブログを読むとか、ましてや好き好んで書くなんて、「遊んでいる場合か!」と、こころの声に叱られる。

いや、叱ってくれる。大人なのに。

アフィリエイトで稼いでいるのか。ならよし」と言うかもしれない。


「ブロガーなんてのはお前、それで金儲けするか、テメェの宣伝か、金持ちが暇つぶしにやるんだよ。儲からねぇ、自分にブランドもねぇテメェは、遊びで書いているとしか思えねぇんだが、テメェはいつから遊んでいられる御身分になったんだ?御身分っていうかゴミの癖にクソが」と大騒ぎだ。


たいがいのことは、こころの声が判断してくれる。

あれをやれ、これはするな、と、「こころの声」がわめき、それに下っ端は駆動される。

脊髄反射という言葉を地で行くように、下っ端はこころの声が「非モテ」といえば非モテに悩み、「寝ている場合か!」と不安を煽られれば睡眠時間を削る。


問題は、この「こころの声」が厄介で、たいてい間違えていることだ。

目標までの射程が異常に短かったり、プロセスが狂っていたりする。


「こころの声」が言っているのはせいぜい「目の前の危険を回避せよ」「不安だ、なんとかしろ」「明日食えなくなるかわからないのに、今そんなことするな!」というものだ。

これは一言に集約される。


「否定」だ。


こころの声が言っていることを、きちんと見直すと、統一感がなく、再現性が無いのはもちろん、対案もろくなものではなかったりするが、大概この「こころの声」に追い立てられて毎日が過ぎる。


「こころの声」はうるさく、これまでの経験を大幅に狭め歪めたプロセスしか提供しないから、実際のところ、もろもろの解決策を「こころの声」は知らない。

解決策は大概「外側」にあるので、現時点では見えない。

現時点で見えないことへのプロセスを「こころの声」は知らない。


現時点で解決までのみちすじ、プロセスが見えないときには、「地図」を創る必要がある。

つまり、「地図のない場所に地図を作る」ことだ。

その地図は、一人ひとりの直面している問題ごとに異なる地図で、いわば「オーダーメイド」の地図だ。

それを作り、道なき場所に道を創っていく仕事は、誰も指示しない仕事。

誰も後押しなどしてくれない仕事だ。


そのために必要なのが、トレーニングとか読書とか遊びとかだ。

遊びもいろいろで、文章書いたり、プログラミングしたり、ひとと会ったり、ぼんやり散歩したり。


「外側」に至る「理(ことわり)」を積み上げるために、「地図のない場所に地図を作る」ために、読書は必要だ。

自分のまだ知らない情報を自分のものとすることが必要だ。


下っ端には誰も地図を用意してくれない。

下っ端には短期的な指示が来るだけで、次の保証はない。


だから、実のところ、読書は必要だ。

下っ端にこそ、必要だ。

それを後押ししない共同体にいるひとほど、それは必要なのだ


なので、心の声がなにも言わないものこそ、意識的に続けることが大事だ。意思が必要だ。


だから、とりあえず、予定表に旅行の予定を入れた。

カバンに新書を入れた。


現代は、短絡的で脊髄反射的で高圧的な「こころの声」に抗する闘いの時代なのかもしれない。


テニスをその発祥とするコーチングでは、高圧的な「こころの声」である「セルフ1」を上手に黙らせるテクニックを教えてくれる。


ところで、「こころの声」に駆動されて、言葉を投げつけてくる人がいる。

異様に規範意識が強かったり、「世間が」という主語でモノを言うひとは、「こころの声」に駆動されて、脊髄反射でモノを言っている場合が多い。

自分の「こころの声」を叫べば、相手のこころスイッチを押せる。

押すとどうなるかだけはわかるので押して操作する。

本人は自分の意見だと思っているけれど、「こころの声」たちが騒ぎ立てる声をそのまま言っているだけ。

かくして不毛ないさかいが起きる。


晴耕雨読は、のんびりした生活を指す言葉ではなく、抵抗であり、道無き道を創る行為であり、誰も後押ししないがゆえに、意思が無いと続かない、地味で孤独な闘いだ。

誰も後押ししない、誰も望まない、結果もすぐ出ない、「遊び」だと糾弾される行為だ。


だから、下っ端に読書なんて要らない。

下っ端でいられる限りは。