reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

自己責任と主体の形成、教育、教えること

本エントリはid:dankogaiさん(以下、danさん)のエントリ404 Blog Not Found : 小市民の敵は、小市民に対する二つめの応答です。

付記:
「長い」「長いよ」「長くて読めない」「もっと簡単に言ってほしい」「平易な言葉で簡潔に」などのご意見をいただきました。

とりあえずお時間のない方は、最後の「生産的なやりとりをするために」の節だけお読みください。

そして、逆から読んでいただければと思います。どうぞよろしくお願いします。

結論までの長い文章は、その結論に至るまでの布石です。僕がその過程でやっているのは、「解呪」です。

解呪であればなおさらですが、呪文は、段階を経て編まないと効果を発揮しないのですけれど、同様に最後まで詠まれないと効果は現れないので。

「決断すること」に、単純に反対はしないが、危ない論理。

404 Blog Not Found : 探すな決めろ - 書評 - 自分探しが止まらない
0x20歳、すなわち32歳あたりを過ぎても「自分が見つからない」人々は、無理矢理にでも自分を決めてしまった方がいい。

「自分を決めること」というのが具体的にどういう事なのかを最後に訊きたいのですが、それはともあれ、「決断すること」には僕は単純に反対しません。


先取って言うと、「決断すること」は経験しないと学べず、一度「決断する」と次も「決断する」という身振りを取りやすくなるからです。


しかし、「決断する」ことは、実は大変危うい側面を持っています。それは、全体主義との親和性を持っています。

「決断する」とはどういうことか

「決断する」とはどういう事でしょうか?


わかりやすい文章があります。フランツ・カフカ掟の門」です。


短い物語なので、ぜひ読んでみてください。リンク先に、全文が載っています。


この物語では、主人公の商人が、徹底して決断しない人間として描かれています。


「門をくぐること」は「決断すること」を表しています。


もし商人が、「『門をくぐらないこと』を決断した」としたら、つまり門前で店を出し始めることになれば、それは「門をくぐった」ことになります。


そのような決断もせず、門前でためらうこと−これが「決断しない」ということです。


逆に「決断すること」とは、何らかの判断を主体的に行うことである、と言い換えることが出来ます。

決断は、本質的に論理性では解決できない「問い」から発する

また「決断」を要する場面というのは、パズルのような論理的判断が下せる問題ではなく、合理的な答えが複数あり、その中の一つを無根拠に選ばなければならないような事態にあるような場面です。そのとき人には、はじめて「決断する」という行為が発生します。


数学などで定理から結論を導き出すというような、論理的回答を得られるような行為ではないのです。*1。答えが論理的に導き出せないから、「決断」するのです。

「決断すること」が有効なのは、「教育的な効果」を期待できるときだけ。

ひとは「決断すること」を迫られる状況で、成長することがあります。


「決断をすること」を迫られる状況が、教育的な効果を生み出すのです。


ここでいう「成長」とは、アイデンティティ、主体を確立する、ということです。「決断をすること」によって、人はアイデンティティを確立する機会を持つのです。


例を挙げます。

陪審員の制度の正当化を取り上げよう。『陪審制度が訴訟の当事者にとって有益かは知らないが、判決を下さなければならない者にとってはきわめて有効であると確信している。私の見るところ、陪審制度は、社会が用いることの出来る最も有効な大衆教育の手段の一つである(トクヴィル)』。……『陪審制度が陪審員にたいして教育的効果をもつ−トクヴィルはこれを利点として陪審制度を推奨しているわけだが、そのための必要条件は、陪審員が、自分たちは、自分たち個々人の成長などをはるかに超えた、価値ある重要なことをしているのだ、と言う信念を持つことである(エルスター)』
言い換えると、陪審員たちが、自分たちの仕事の司法的効果はほとんど無であり、彼らの仕事の真の目的はそれが彼ら自身の市民精神に及ぼす効果−その教育的価値−なのだ、ということに気づいたとたん、この教育的効果は損なわれてしまうのだ。」
(「イデオロギーの崇高な対象」スラヴォイ・ジジェク p132)

「宗教的な賭けについてのパスカルの議論にも同じ事があてはまる。たとえわれわれが間違った賭けをしていても、たとえ神がいなかったとしても、神への私の信仰、それにもとづいた私の行動は、私の地上の生活においてさまざまな有益な効果をもたらす。私は、不安や疑念から解放され、品のある、静かで、道徳的で、満足のゆく人生を送るだろう。だが、ここでも問題はやはり、神や来世を本当に信じられていなければ、この地上の益を得ることはできないということである。これこそがおそらく、パスカルの議論に隠されたいささか皮肉な論理である。宗教において真に問題なのは宗教的態度によって得られる地上の益なのだが、この益は『本質的に副産物であるような状態』なのだ。それは、来世にたいするわれわれの信仰の、意図しなかった結果としてしか、生み出されないのである。
(同前 p132)

ローザ・ルクセンブルクの描く革命のプロセスの中に、これと同じ議論が見いだされるのも、けっして意外なことではない。まず、最初の労働者の闘争は挫折を運命づけられている。彼らの直接的な目標は達成されない。しかし、彼らは必然的に失敗するのだが、それにもかかわらず彼らの全体的なバランス・シートはプラスである。なぜなら彼らの一番の獲得物は教育的なものだからである。つまり彼らは、労働者階級を革命の主体へと組織してゆくのに役立つのである。ここでも問題は、もしわれわれ(共産党)が、闘っている労働者に直接に『失敗しても気にすることはない、君たちの闘争の主な眼目は、君たち自身の教育的効果なのだから』と言ってしまったとしたら、教育的効果は失われてしまう、ということである。」
(同前 p133)


引用文の中でもはっきり言われていますが、裁判なんて専門家が裁いた方が公正な判断が出るに決まっているんですよ。いくら一般市民が付け焼き刃で勉強し、考えたところで良い判断が出来るわけがありません。自明のことなんです。それでもなぜ市民を裁判制度に陪審員という形で参加させるのかと言えば、そのやり方でしか市民を教育する場がないからです*2


陪審員制度・宗教的態度・労働運動の3つの例を挙げました。共通することは、具体的な問題に対して、徹底的にその問題を考え抜いて決断を下すことで、その事業の成功の有無とは別に、その人は成長するということです。行為を通して人は「決断」することを、「知る」水準から「経験する」水準に移行させます。


市場でも同じです。市場で闘って勝てるかどうかは、本人にはわかりませんし、全体としては勝ち負けが出てくるでしょうが、そのこととは本質的に別の、副次的な意味で彼らは成長するのです。これが「市場の教育効果」です。


そして、「決断」する人間は、「決断」する傾向を強めるものです(参照:「「理系な人」と「文系な人」」)。

「教育」とその補完

市場の教育によって市民は成長するが、その結果二極化します。ごく一握りの勝者と大多数の敗者に。


教育を受ける人間は、選別すべきではありません。それは、教育を受ける側からもそれを保障する側からもそうです。行政がなぜ選別すべきでないかと言えば、その教育は、上記に述べた意味での教育であり、市民全体の教養の底上げを狙うものだからです。


しかし、「市場の教育」は、二極化を目指したものではありませんから、そこで「負けた」ものを救う措置が必要になります。


市場に次々と「パイ」が供給される時代ならば、その格差は政策的努力が無くとも自然に埋められたでしょう。一時的な格差は、さらなる「パイ」の再分配で埋め合わせられました。しかし、今は「冬」もしくは「雪解け」の時代です。政策としての雇用、福祉対策が必要になります。


その措置とは、たとえば、ベーシック・インカムです。


でも、ベーシックインカムの導入には時間がかかります。


現状では、所得税の累進制を強化し、逆に減税や生活保護受け入れの徹底など、再配分の強化が必要になるでしょう。


「市場の教育」を受け入れられる人間なら、所得の強い再配分を受け入れることは容易だと思います。「この金は自分一人で稼いだカネだお前ら手を出すな」と品性なく喚く人間は、教育と言うことがどういう事なのかを理解できていないのかも知れません。


自分一人では、生産も流通もサービスも何も提供できないことを理解できていないのでしょうし、結果としての「勝利」は、いわば教育の副次的な効果であることに理解が及ばないのかも知れません。。


常に「勝った」ものの言葉の方が強いですから、「勝った」ものは、より強く、再配分を強調するべきでしょう。自分の銭を守るなんて情けないことをしないで欲しいです。

「教育的な効果」は、「問う」−「問われる」関係から生まれる。

ところでこの、「教育的効果」は「問う」−「問われる」という非対称な関係から生まれます。


教育的効果を発する「決断」は、自分を「問われるもの」として「問う」者を想定し、自身が「問い」に応える立場に立つとき、はじめて成り立つのです。


「いったい何を問われているのかわからないが、ともかく何かが問われていて、それに応えなければならない」という切迫した状況におかれて、人はその問いに答えようと必死になります。人は、「知っているはずの存在」という状況に投げ出されることによって、その問いに答えようとするのです。


だから、「決断すること」の「教育的効果」は、自分を「問われる主体」「知っているはずの主体」としてまず想定する(される)ことにより発生します。

「すべての問いを有している審級」とは、全体主義的権力に近い。

「自分を決める」というのは、もしくは「決断する」と言うのは主体を確立すること、アイデンティティを確立することに他ならないのですが、基本的に、その「自分」とは無根拠です。それは、「そうであると信じる」という身振りにおいて、行為を通して確立されるもので、主体やアイデンティティは常に事後的に発見されます。


「森の中で道に迷ったら、どこまでもまっすぐすすめ」というデカルトの格率通り*3、正しい方向を目指したから正しい方向に向かったのではなく、正しい方向と信じてその方向に向かい続けたからそれが正しくなるのです。その方向を目指したのが最初は単なる偶然に過ぎなかったのかもしれない、という事実を自身に隠蔽することで、「自分は正しい道を歩いているのだ」と信じ込むことが出来ます。


この、まず行動する、という主体確立が最悪の形であらわれたのがファシズムでした。ファシズムの要求するものは、つねに行動の形式それ自体です。内容はどうでもいいのです。内容が空虚であるが故に、そこに向かって突き進むという形式を要求できるのです。

ファシズムが猥雑なのは、それ自身の目的として、自己目的として、イデオロギーの形式を直接に捉えるからである。
ファシストは、自分たちがイタリアを支配するのだという主張を、どうやって正当化するのか。そのプログラムは?』と言う質問に対する、ムッソリーニの有名な答えを思い出してみればいい。『我々のプログラムはきわめて単純だ。我々はイタリアを支配したいのだ』。ファシズムイデオロギーの力は、自由主義的な、あるいは左翼の批判者が、ファシズムの最大の弱点とみなした、まさにその特徴にあるのだ。その特徴とは、そのアピールが全く空虚で形式的だということ、服従のための服従、犠牲のための犠牲を要求すると言うことである。ファシストイデオロギーにとって、重要なのは、手段としての犠牲の価値ではなく、犠牲の形式それ自体である。」
同前 p130

「問いは、全体主義的な相互主体関係の基本的手続きである。警察の尋問とか教会の懺悔といった典型的な例は、あらためて言及するまでもないだろう。真の社会主義的な新聞における日常的な敵の濫用を思い出せばそれで十分だ。『[出版の自由の要求、民主主義の要求の]背後に隠れているのはいったい誰だ?いわゆる新社会運動の背後で糸を操っているのはいったい誰だ?彼らの口を借りてしゃべっているのはいったい誰だ?』という疑問文の方が、『出版の自由を要求しているものたちは、実は反社会主義勢力の活動のための場所をつくりたいのだ。それによって労働者階級の主導権を奪いたいのだ』というごく平凡で直接的な肯定文よりも、どれほど威嚇的か。全体主義的権力はすべての答えを握っている教条主義ではない。反対に、すべての問いを有している審級なのだ
同前 p272


ここではファシズムだけを取り上げましたが、スターリニズムをはじめとした全体主義すべてに当てはまります。


主体の形成が「問う−問われる」を想定してはじめて生まれる以上、それは常に全体主義への隷属と親和性を持っています。


主体の形成とは、常に不安定で危機的であり、「厄介なる主体(ジジェク)」なのです。


決断と呪い

2008-02-26」さん

これでも僕は「自己責任」なのでしょうか?

それとも産まれてきた時代が悪かった。それだけなのでしょうか?

教えて!ダンコーガイ

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51009734.html

一つ聞いておきたいのは、なぜこの入社二年目の時に辞めなかったか、ということ。

逆算するとこの時、君は27歳。転職適齢期だ。

こんないびつな組織が回らない、というのがわからなかったのだろうか。

それとも、転職が怖かったのだろうか。

どんな国の、どんな時代に生まれてくるかは選べない。自らの出生は、確かに自己責任ではない。

しかし、どんな会社にどのように勤めるかは、選ぶ事が出来る。

その意味では、君の今も過去の君が果たした、あるいは果たしそびれた自己責任の結末ではある。


繰り返します。


決断という行為は、すなわち主体の形成とは、自らが選んだ答えを十分に根拠がある、自分たちを目標に導いてくれるものだと信じ、自分が実は「その選択を偶然選んだに過ぎない」という事実を隠蔽することでしか生じません


逆に言うと、自分が失敗したのは「正しい答えが存在していて、それを見つけられなかったからだ」と想定することで、逆説的に生じてくるものです。


上記の受け答えでは、最後の一文が問題だろうと思います。


そんなことは、敗残兵の僕でも言えます*4


でも、僕が言ったところで「あらあらうふふ。reponちゃんはがんばりやさんね〜」とスルーされるでしょう。従ってdisコメにはなるでしょうが、syncさんにはなんの影響も及ぼさないでしょう。だって、syncさんは僕に何も問うていないから。僕を「問う主体」として想定していないから。


でも、「問う主体」として想定されているdanさんが言えば、その言葉がsyncさんや僕に与える影響力というのは全く異なるんですよ。danさんが過去を否定すれば、必然的に、相手は過去にピン止めされてしまう。過去への煩悶で苦しむことになる。「どうしてこうなってしまったのか」という問いを、本人の中で執拗に繰り返すことになる。


「問う−問われる」の関係の中で、「問う」主体であるdanさんが過去に対して否定をすれば、(danさんご本人にはそのつもりが全くないとしても……たぶん全くそのように意識されていないと思いますが)、「問われる」主体である相手の心の中で、不能感、無力感、欠如感があふれ出すんです。あくまで、本人の中で。


danさんの言葉に私たちが力を感じるのは、「すべての問いを有している審級」にあろうとし、またそのように承認されているからです。


danさんが「マッチョ」なのは、「彼が有能であり、社会的にも承認され、多くの財貨を持ち、次々と良エントリを量産し、ありとあらゆる書物について的確な書評を行い、あらゆる問いに答える能力を持っているから」ではありません。そのような現実の力の直接的な効果ではありません


danさんはすべての答えを握っているから、相手の心を動かす力を持っているのではなく、反対に、すべての問いを有しているから、力を持っているのです。


danさんは、問います。問われた人間は、何かしらの「答え」があると考えます。その答えは、自身が「マッチョ」でないと思っている人間ほど、「マッチョでなければならない」という答えになります。


danさんの問いに対して、客観的に正しく、自分を罪悪感から解放してくれるような答えを口にすることが出来ても、すべては「言い訳」になってしまいます。なぜならその答えは、自分は、自分のしたくないこと−「マッチョ」になどなりたくないこと−を確証しているのですから。(参考:「なぜ「なにをしていたんだ?」という問いかけは暴力的なのか? 」)


「問い」の「狙い」は、この、問われた人間が抱える不能感、無力感、欠如感を引き出し捉えることにあります。問われたとき、すでに「マッチョ」でないことを相手は責められているという罪悪感にとらわれているのです。




danさんは、聞かれたので応えただけでしょう。そして、全く悪意など無かったのでしょう。


しかし、相手に対して「不能感、無力感、欠如感」を引き出したのはdanさんの言葉でした。

幻想のレベルに存在する概念を知るための方法−「否定の否定

この説明ではピンとこない人がいるかも知れません。


具体的に相手に侮蔑的なことを言ったわけではないし、danさんは善意から言っていて、勝手に相手がそういう反応をしただけだろうと。


しかし、「不能感、無力感、欠如感」は生じていて、今それを問題にしているのです。


この感情を客観的に見るためには、まず自分が「問われる主体」になって(否定)、その感情を経験した後、今度はそこから離れて(否定の否定)、自分の中で起きた感情を客観的に眺めてみてください。


ここで僕が「否定の否定」という言葉を使ったのは単なるレトリックではありません。


最初の否定(「問われる主体への同一化」)が、客観的立場に立ったときに見える感情へのポジティヴな根拠になっているのです。最初の否定は、次の否定のポジティブな根拠になるのです。否定そのものにポジティヴな根拠があるのです。

「『悪』とは『自由選択』をし、誤った方を選んだとされ、告発される主体」のこと

これははっきりさせておきたいのですが、先ほどのやりとりにおける、過去の時点の「選択」などは、すべてが終わったあとで編まれた「物語」の中で語られる、無時間的・先験的・超越論的な行為に過ぎません。


要するに、そんな選択は、時間的現実においては、一度も起こらなかったのです。


その「自由選択」をよりどころとして「答え」を迫るdanさんが行っているのは、「告発」です(くどいようですが、danさんご本人にそのつもりがあったかどうかは別問題です)。


「告発」とは、同語反復ですが、相手を、「すでに知っているはずの何者かの立場に立たせること」です。


相手は、彼が知っているべきことをすでに知っているかのように扱われる状況へといきなり放り込まれることによって、告発されるのです。


「告発」とは、「告発者」=「問うもの」と「被疑者」=「問われるもの」が存在して初めて生まれる言説です。

氷河期の猛吹雪にズダボロに引き裂かれた人々と、グングン成長した人たち - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
id:repon氏やid:sync_sync氏が「自分はわるくなかった理由」を10個考え出している間に、「その状況から抜け出す具体策」を10個考え出す生き物がマッチョなんだ。


そのような「物語」を編むことも可能でしょう。しかし、これは物語に過ぎません。実は「原因−結果」の因果関係は、かなり恣意的に編むことが可能です*5


僕やsyncさんが「その状況から抜け出す具体策」を10個考えなかったという具体的な事実など示せるものではありません。それは、「物語」に直接接続されます。「だから、なかったから今こうなったんだろう」という同語反復でしか示すことが出来ません。


もしかすると、「自分を決めた」からこういう状態になったのかも知れない。「決断」しなかったら、「決断」を先延ばしにしていたら、事態は好転したかも知れない。


「物語」はどうとでも編めます


成功と「自分を決める」ことはイコールではなく、また成功も、どの基準で成功と呼ぶのかはかなり恣意的です。


「その具体策はうまくいかなかったから意味がない」という反論があるかも知れません。


では、「うまくいった」と判断するのはいつ?どこ?誰?


常にそれは、「今ここ自分」でしかないのです*6


「悪」とは、今ここ私の次元において、遡及的に「誤った方を選択した主体」のことなのです。それは、一つの編まれた「物語」です。

決断は常に、「自分探しホイホイ」に晒されている

「あなた最近不満があるでしょ。仕事でうまくいっていないのね。人間関係のトラブルでしょ。すぐにわかるわ。人というのは心がけ次第で、どんなふうにもなれるの。きちんと心がければ、良い関係が作れるのよ。あなたの場合、生命線が長いから愛情豊かになれるはず*7。でも厳しい言い方をすれば、あなたは努力も運も足りないわね。今まで失敗してきたことを思い出してみなさい。きちんと自分で決断した?してないでしょ。だからよ。だからダメなのよ。あなたには決断が決定的に足りていないの。がんばっても、今のままじゃ空回りね。運気を強くすることが必要なの。あら、ここにいいものがあるわ。運気を強めるツボよ。ツボを買うのも一つの決断よ。あなたは今まで決断しない出来たんだから、これから決断しなくちゃ。今からあなたは生まれ変わるの!」

なんていうあからさまな自己啓発だとわかりやすいんですが(これは作り話)、

  • 「自分のことを的確に当てられる」
  • 「自分の話を聞いてくれる」
  • 「自己努力を促される」

というステップを経ると、たいがい人は相手と「問う−問われる」の関係になります。


「告発」される関係ですね。そうなったら、あと一押しで相手にツボを買わせることが決断させることが出来ます。


だいたいひっかかる人はみんな、心に不満や不安を抱えていて、その不満や不安なんて他人から見ればほとんど丸わかりなんです。そこをつけばイチコロです。


結局のところこの「告発」とは、自己啓発の一種に過ぎません。


自分が「決める」、自分が「気づく」、それを常に要求する。そのような言説のひとつです。


これは、「自分探しが止まらない」で著者の速水氏が命名した、「自分探しホイホイ」という言葉が適当だと思います。


「マッチョ」に相対した人間は、その問いの前でとまどい、考え込み、自分を問い返し、やがて「気づき、決める」。


見事に「自分探しホイホイ」にはまるのです。


danさんは明らかに好意で問いに応えているんですが、それだけに破壊力が大きい。「かっ、勘違いしないでねっ!べっ、べつにマッチョにあこがれてなんかいないんだからっ!」といった「マッチョ」にツンデレな態度を取っている僕のような人間が教えを請うたら、一発で「自分探しホイホイ」行きですよ。


教育とは、このように常に危うい均衡の上に成り立っているものと考えます。

生産的なやりとりをするために

お互いが「自分探しホイホイ」に嵌ったり嵌らせたくないのに、その点ですれ違うとすれば悲劇でしょう。


danさんは呼ばれたから親切に応えただけですから(僕は直接呼びかけてはいませんが)、お互いにこういうすれ違いは悲劇です。


これはdanさんが悪いとか僕が悪いとかそういう問題ではなく、「問う−問われる」関係に、過去への弾言断言が含まれると、必然的に一定の人間には「呪い」がかかってしまう、ということなんです。

「原因はうまくいかないときにだけある」
ジャック・ラカン


人はとかく、過去を否定的に織り上げやすいんです。


ポジティヴな人は、そのことがわからないんです。しょうがないんです。同じ風景でも見えているものが違うんですから。




僕はどうやったらやりとりを生産的に出来るかとずっと考えていました。僕にとっても、danさんにとっても、他の方々にとっても。


そして、それはやはり過去を否定的に織り上げる話ではなく、未来へ具体的な選択をするためにどういうことをするのか、その話をするしかないんじゃないかな、と思いました。


「自己責任」「自己権利」を、ポジティヴに捉えられる人もいるでしょうし、ネガティヴに捉えてしまう人もいるでしょう。その曖昧さを排除するには、こういう抽象的で曖昧な言葉ではなく、具体的な話をすることが必要かと思います。


これからの未来に不安を抱いている人間に、「『自己権利』の行使」と言っても、それは過去への否定としかとれませんし、出来ていれば問題になりません。


そもそも今の状況が失敗なのかどうかなんて明確な基準はないし(救済が必要な基準というものはあります)、それを「『自己権利』を行使しなかったからだ」などという「物語」に回収してしまったら、発展性がないと思うんですよね。

氷河期の猛吹雪にズダボロに引き裂かれた人々と、グングン成長した人たち - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
この氷河期は単なる不運ではなく、人災だった。

「誰の責任でもない」というのは嘘だ。

この惨劇の責任を負うべき人たちは、たしかにいる。

この一文には、客観性があって僕は頷けます。




もし、danさんや他の方々に、新たに応えてもらえるなら、これからの未来に不安を抱いている人間に、「『自己権利』の行使をするためには具体的にどうするのか」「『自分を決める』とは具体的にどういうことか」を話してもらえればと思います。


そして、身も蓋もなく

「今の君の状態が失敗なのかどうか、そもそもそれ自体を私は判断できないし、あなたしか判断できないだろうし、ムリに判断する問題でもないだろう。これからどうしていいのかも、あなたではない私には応えられないし、わからない。」

と応えたとしても、それはあからさまであることで、返っておかしな執着を相手に呼び起こさないことになると思うのです。


でも、さらにつっこんで、

「具体的に、こういうことをしたらプラスになるんじゃないの?」

という言葉を応えてもらえば、それはとても生産的なやりとりになるのではないでしょうか。


人生経験の豊富な方から、無償でアドバイスを受けられる貴重な機会などそうはありません。その機会を、お互いに有益なものにするために、そのようなやりとりをすることを提案します。

参考図書

金を借りてでも買って読むべき本。90年初頭に書かれた著者の処女作であると同時に、すべてが書かれた本。この本の限界も、この本の中で示されています。100回読むと、100回違った感想があらわれる、それくらい深い本です。そのための3200円なんて、安いもんです。ジジェクはとにかく膨大にある著書のうちの1冊を読めば、だんだんわかってくるのでとりあえず読んでみてください。


さらにその入門編。

一望しづらいジジェクの言説を一通り捉えるためのガイドブック。なかなか良いできだと思います。


そもそも現代思想を知るための入門編

わかりやすい言葉で現代思想のキーパーソンたちの思想について語り、かつそれを使いこなす作法を伝授してくれます。この本が新書で出ることに感謝!入門編としてグッド。


教育とは何かを原理的に知るために

内田先生の著書はその全てが教育論といえるのですが、その中でも入門編に最適の本だと思います。
教育の力と危うさについて明快に丁寧に解いた本。学校論でも、教育政策論でもなく、「学ぶ」とは何かについての原理的を語った本。
教育について語ろうとするときには、それにふさわしい文章作法があり、切り口がありますが、その点からも読むことがすなわち学ぶことにつながる好著です。
上記に挙げた本のさらに入門編。




エントリは続く(もうちょっとだけ続くんぢゃ、たぶん)





 

*1:この点については、ラカンの「3人の囚人のジレンマ」がもっともわかりやすい例でしょう

*2:映画「11人の怒れる男たち」が非常にわかりやすいです

*3:方法序説」第3部。しかし、実際にこれをやると同じ場所をグルグルと回ることになるのでむやみに歩かない方がいいです

*4:実は「敗残兵」と想像的に自身を同一化することが、もう問題なのですが

*5:「マッチョ」については次のエントリで書きます

*6:この、「今ここ自分」の狭窄した視野から抜け出す方法が、フーコーの系譜学です

*7:適当です