reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

昨日(08/6/22)の「文化系トークラジオ Life」 雑感1

今回(2008/6/22)は、「秋葉原連続殺傷事件」がテーマでした(次回「秋葉原無差別殺傷事件」予告編 (文化系トークラジオ Life))。


メモ書きです。チャット(文化系トークラジオlife20080622(only in Japanese) (at Lingr) > Archives > June 23, 2008)の内容をほぼ採録しました。


文句ばかりになってしまった……
それだけ取り上げるのが難しい問題なんだろうナァ、と思う。


ちょっと長いですが、おつきあいください。(長すぎたので4分割しました)

物語の怖さについて

個別具体的な事件を、「物語」として語ってしまう怖さについては、その通り。

何らかの手近な「原因」を、今回の事件に当てはめてしまうことで二次災害が引き起こされる。

など。

人は「物語」に落とし込むことで、物事を理解します。

「原因はうまくいかないときにだけある」
ジャック・ラカン


もう一つの理解の仕方は「科学」。今が科学というイデオロギーが衰退し、物語に取り込まれようとしている点については大塚英志さんが指摘をしています(たとえば「物語消滅論」)。*1


しかし、「物語」に落とし込まず事件を、唯一の、一回きりの事件として認識することと、派遣の待遇をよくすることや孤独な若者の繋がりを作っていくことは何ら矛盾はないと思います。

この事件を、後者の「運動」のための(悪い言い方をすれば)「ネタ」にするやり方はありかと思います。


「それは被害者感情にあまりに配慮していない」というお怒りの声もあるかと思いますが、そこは、あくまで事件の単独性と、その背景という普遍性を切り離して考えることが必要かな、と思いました。

現場を通行人が実況したり写メしたりust中継したことについて

次にメディア問題。

現場で携帯電話の写メで事件を撮っていたり、動画放映(ust中継)をすることの是非について。


「プロなら良いんだ」「アマチュアがやるのがまずいんだ」は本質的ではないと思う。

この問題への「不快感」って、「日常」と「非日常」の境目が無くなってしまう事への「不快感」だと思うんだ。

テレビなり新聞と言った「メディア」というフィルターを通すことで、僕らは事件を「非日常」なものとして捉えられる。

それが、携帯で写メ、とか、写りの悪い動画で中継、とかやると、あまりに「日常」すぎて生々しい。

だから忌避するんだと思った。

写メを撮る通行人の「内面」を不謹慎だと罵っても意味がない。*2

これは技術の進歩だからどうしようもない。

「気分が悪い」と言い続けるしかない。

「プロだからよくて、アマチュアだから悪い」とかは、そこら辺の「気持ち悪さ」にたいする防衛反応だと思った。


だってさ、911テロは現場から生中継されたわけだよ。

多くの市民が直接見て、写真だって撮っていたわけだよ。

でも、事件があまりに「非現実的」「非日常的」だったから、「スペクタクルに満ちていた」から、許容できた。

目の前で起きていても、「非日常」として捉えることが出来た。


今回の論法で行けば、911テロの映像だってすべて「不快感」が生じるはず。

だから、「お茶の間で楽しめる画像フィルター」みたいなのがフリーソフトで誰か開発して、それをustの画面にフィルタリングすることで「お茶の間でも楽しめる動画」に変更できれば、こういう「不快感」は生まれないと思うよ。


続きます。

*1:もう少し言うと、デカルトの時代以前は主体と客体が渾然一体となった物語の世界を人は生きていて、その世界は「魔術的」でした。しかし科学の進歩により客観が確保され主体と客体が分離され、事象が再現性を持つ「法則」として理解されると人々は魔術から脱します。この産業革命前後からの大きな認識の変化を「脱魔術化」といいます。そうした科学のイデオロギーが最高潮に達したのが「共産主義国」で、「唯物論」(カッコをつけているのは意味があります)だったのですが、ソビエト連邦が崩壊し、急速に科学のイデオロギーは衰退していきました。今現在、人々を動員するのは科学を基礎としたイデオロギー的スローガンではなく、再び「物語」になってきています。これを「再魔術化」と言います。つまり、「封建主義」→「資本主義」→「ポスト資本主義」≡「魔術」→「脱魔術化」→「再魔術化」と言えます

*2:というか、「不謹慎」って言葉が出る時って、ほとんどが話者が自信の内面に何か隠していると考えた方が良いと僕は思う