自死について
finalventさんの言われている「自死」は、たぶん「自分に殺される」ことだと思う。
「自分」ではなく、「殺される」のほうに力点がある。
「一緒に自殺しましょう」と自殺志願者を集めて、被害者が苦しみもがいて死んでいく様を楽しんでいた殺人鬼がいた。
集団自殺だと行っておびき出し、縛ったあと口をふさいで窒息させ、死に至る様子を楽しんでいたのだという。
想像するだけでゾッとする。
たぶん、finalventさんが言われている「自死」では、「自分」が、この「殺人鬼」と同等なのではないか、と思った。
神が私を滅ぼすならどうどうと滅ぼせ、それがあたなの意図ですかと、問いたいような思いがある。
「神」が自分を殺すとして、その神もまた、「殺人鬼」と同様に、「自分を殺すもの」としての他者なのだろう。
人間は生物だから、「殺される」ことに対しては絶対的に嫌悪感がある。
なんとしても生き延びたい、そう思う。
僕もこの殺人鬼に殺されるのはたまらないと思う。
「どうせ死ぬんだから、殺されようが自分で死のうが一緒じゃん」という人がいたら、それは感覚的に全然違うだろう、と思う。
しかし、僕が思う「自死」は、finalventさんの言われる「自死」とは逆だ。
「自分が自分を殺す」のである。
自分は加害者なのだ。
加害者だから、思い切り暴力を振るえる。
ものを壊す。
生き物を殺す。
それと同等の感覚で、自分自身を、殺す。
僕が思うに、「自死」には、この「破壊の快楽」が背後にあるのではないか。
以前僕は、「自殺は自傷の延長線上にある」と書いた。「自傷 - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)」
「自傷」は、この加害感覚が、まずある。
finalventさんは、たぶん自分の肉体と精神に一体感をもたれていると思う。
だから、常に「自死」において、自分自身は「被害者」だ。
しかし、僕がもし「自死」をするとすれば、あくまで「自分の肉体」は壊す対象としての「他人」の肉体として、「自分」とは精神的に分離した「物質」なんだと思う。
僕の「自死」では、僕は「加害者」だ。
この点が決定的に違う。
自死に直面するそのさなかで、その人たちの心で、そうした彼/彼女に向き合う神というのは存在しないのだろうか?
たぶん、finalventさんにとって「神」は「殺す」加害者であり「自分」は被害者であるが、僕は「神」に精神的に一体化し、穢れた自分という肉体を滅ぼすのだと思う。
あくまで自分は「加害者」なのだ。
視点の違いなんだと思う。そして、この視点の違いは、とても根深いものがあって、僕などにはその違いがどこから発するものなのかはまったくわからないけれど、その違いはとても大きい。
「自死」に至る際、最後まで「殺される」という恐怖感があれば、たぶん人は死なない。
そうでないから、人は死ぬ。
まったく最期まで、自分自身を被害者において、なお自分が「殺される」ことを受け入れられるとすれば、それは生物を超えている。
だから、人間は「動物」でいるべきだと思うし、finalventさんの思考の回路を獲得する方法があれば、それは「自死」の呼ぼうに役立つのではないかと思う。
ただ、精神的でも肉体的でも、苦痛は苦痛だ。
肉体の苦痛についてさんの考察のとおり、
純粋に肉体に疾病や怪我による苦痛があって、どうしても
辛いから、それで自死を選んでしまう人だっているし、そういった人々の
苦痛を少しでも和らげ生き易くするサポートは大切だと思いますね…。
この視点は強調しても強調しすぎることはないと思う。
ところで、「自傷」について、もう少し書く。
自傷は、「加害感覚」だけではない。
それに加えて、なんだか理由や原因や構造はよくわからないが、それと「安らぎ」がないまぜになっているんだと思う。
前回のエントリの繰り返しになるが、「自傷」の回路は、「不安感→自傷→安心感」という流れだ。
この「自傷」を「健康」な人は「気分転換する」とか「好きな人とふれあう」とか「愚痴を吐く」とか「くちびるを噛みしめる」とか、そんな風にしてやり過ごす。
「不安感→適当な刺激→安心感」という流れだ*1。
欠けた自分、不安定な自分、不調和な自分を取り戻す手段として、適当な刺激である「X」が置かれる。
「X」には様々なものが入る。
「大好きな人の抱擁」と「自傷」という、一見すると真逆に見えるものが入る。
なんだかわからないけれど、「自傷」は、するものにとっては「大好きな人の抱擁」と同じ効果があるのだろう。
その構造はわからないし、わからなくても良いと思っている。
重要なのは、今自分がしようとしている行為が、「不安→適当な刺激→安心感」という流れの中にある、と言うことを認識して、「適当な刺激」を「自傷」以外のもので置き換えることだと思う。
「It all returns to nothing(無に還ろう)」と「Komm, susser Tod 甘き死よ来たれ」ではうたっていたが、僕は「It all returns to the alternative(新たな選択肢に向かおう)」と言いたい。
「虚無」という言葉で飾られる、実際には選択肢のない「自傷」ではなく、様々な代替手段を用意しておくべきではないか。
「自傷」に陥る人は、たぶん<貧困>なのだとおもう。
<貧困>は、単なる金銭の多寡ではない。
<貧困>は「溜め」が無いことだ。
その「溜め」には精神的なものがあり、<溜め>がないことで人は「自分を自分自身から排除する」。
この「溜め」というのは多くの選択肢なんだと思う。
ドラッグ・セックス・ロックンロール。
自己破壊的な代替措置はいつでもセンセーショナルに報じられ、「まったく理解できない」からこそ衆目を集めてきた。
そして、実際に死に瀕している危ない均衡にある人は、代替手段は実はたくさんあるけれど、「視野狭窄」に陥っているから、ともかく手近の手段をとろうとする。
センセーショナルに報じられる「手段」を、安易に取ってしまう(例の「硫化水素」自殺が増えた影で、別の方法での自殺が減っているときく)。
「自傷」をしてしまう状態というのは、「不安感」と「安心感」の間にある溝を埋める「選択肢」がとても狭い状態なのだと思う。
この「選択肢」を、いざというときの安定剤のように、たくさん用意しておけると良いと思う。
もちろん、そのような状態にある人は、
たいていは一種の精神疾患であり自己分裂なのではないかと思う。
ので、投薬と休息による治療は欠かせないと思う。
「Komm, susser Tod 甘き死よ来たれ」
関連エントリ
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*1:「くちびるを噛みしめる」強い人は、また別の回路を持っているのだろう