満点を取る方法と、「勝つ」方法は異なる
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/95さん
レスリングとかボクシング、あるいは海外の人がやってる「judo 」なんかは、たぶんお互いが技を知ってることが前提になっていて、文章できちんと定義された「負け」の状態に相手を持って行くためには、自分はどうすればいいのか、結果を想定して、そこからやるべき動作を演算しているような印象。
日本のやりかたは、「正しいやりかた」がまずあって、勝ちというものは、正しいやりかたの帰結として、審判とか、さらにその上にいる「武道の神様」が授けてくれるものみたいな考えかたをして、正しさを追求するのが目的になって、勝ちはあとからついてくるものみたいに見える。
国際ルールの「Judo」は、もう日本の「柔道」とは違うスポーツになっているのかも知れませんね。
100kg級の鈴木選手が諸手刈りで一本負けしましたけれど、あれは完全にレスリングのタックルからのテイクダウンで、「きれいな一本」ではない。
日本の「柔道」の考え方は、「一本」の先に勝ち負けが付いてくる、という考え方だけれど、「Judo」というスポーツから入る選手にとっては、「どうやって勝つか」という単純な論理を推し進めていくから、ほとんどルールが変わってしまっている。
実際のルールが変わらなくても、片や「一本」を目指し、片や「ポイント勝ち」を目指すのでは、名目上のルールは同じであっても、互いが共有する暗黙の了解が異なってしまう。
いわゆる「お約束」が共有されていないのです。
日本が「勝つ」ためには、もう「一本」を捨てるしかないのかも知れません。
「一本」と受験勉強
ここで思うのが、「勝負とスポーツの関係」と「学習と受験」との関係の相似性です。
勝負は殺し合いの形式化で、それは「様式美」を追求しているものです。だから、美しいフォームや技のキレが求められる。
でも、スポーツでの勝敗はポイントなどで決まりますから、満点を取る必要はなく、すこしでも相手より多いポイントを取ればよい。美しい技などかけなくても、時間を稼いだり、技を掛け逃げ(上手にやらないと反則になりますが)したり方法は多い。
同様に、学校の学習では100点を取ることが求められます。試験も、どれだけ知識が身についているのかをテストしますから、満点を目指します。
しかし、入学試験でも国家資格試験でも「受験」というものは、一定数を落とすための試験で、はじめから満点が取れないような問題を作ってきます。
満点を取ろうとすれば、解けない問題に拘泥して時間が無くなったりして、結果全ての問題に取りかかれず点数は悪い、ということになったりします。
そのために、予備校などでは「満点を取らない受験テクニック」を教え込みますが、僕には、学校で教える勉強と予備校で教える勉強の最大の違いは、この姿勢の違いだと言う気がしました。
とはいえ、学校の勉強をしっかりやっていれば東大に受かってしまう人も中にはいるので、そう言う人は強さの格が違うので同列に議論は出来ないのですが。
日本柔道界に、桁外れに強い選手が出てこない限りは、勝負を攻略するという方針に切り替わらざるを得ないと思います。
「勝つ」という国内の内圧が非常に強いので、そう梶を切るしかないでしょう。
「勝負には負けたが立派だった」と受け入れるだけ「柔道」に対して国民が理解を示さない限りは。
そこで、柔道は自身の様式美とどのように整合性をつけるのでしょうか。