放り込まれたコミュニティでサバイブする
その言及元のエントリ
http://ameblo.jp/ojyukenmatome/entry-10111469579.htmlさん
公団がどうとかあまり判断基準にならないので、そこら辺は置いておいて。
ただ、ザレムとクズ鉄街のように、住み分けないとお互いが不幸になるようなコミュニティ同士というものは存在する。
階層が上だと思っている人たちの「選民思想」は怖い。
しかし、その人たちに「下」だと思われている人たちが属するコミュニティの中には、実に閉鎖的で常識が通用せず暴力的で同調圧力に満ち、コミュニティ内部の力関係が法律や言論を圧倒するような「サル山」的なコミュニティが多数存在する。
ヤンキー的コミュニティというか、下町マインドというか。
言葉が通用しない(インテリだと吐き捨てられる)、お猿な世界。
そういう地域コミュニティも非常に怖い。
ぶっちゃけ、上だろうが下だろうが、民主主義が通用しないコミュニティに否応なく放り込まれたときには、どうそこでサバイブするかが重要になってくると思う。
僕の職場のお局は「サル山」の論理を職場に持ち込んで、政治遊技に明け暮れていた。
仕事しねぇんだこいつは。
仕事しないのに、職場の重鎮になっているのは、持ち込んだルールを職場に行き渡らせて、バカな役員がそれを受け入れたから。
僕はそこでサバイブし損ねた。
極簡単に言えば、まともに話が通じない人たちは僕は苦手だ。
できれば関わりたくない。
そういう点で、上記エントリの「お受験」マインドは理解できる。
しかし、関わらざるを得ない場合は、どうやって彼らモンスターからの被害を最小限に食い止めるか、具体的な日々のやり過ごし方が問題になってくると思う。
「野ブタ。をプロデュース」的ないじめ空間が蔓延する公立学校でのサバイブは、大人になって社会をサバイブすることとはまた別の苦しさがあるだろう。
おかしな出来事を「おかしい」と言うと同時に、でも現実に直面している場合にどう自分を守るのか、繰り返しになってしまうがそのことは生き死にに関わるほど重要なことだと思う。
追記
b:id:elasticaさん
ある地域コミューンを「サル山」呼ばわりするほど見下してたら、そこの「猿」と一緒に仕事するのは無理だと思う。猿を使うか猿に使われるか、二択。//しかし、下町っ子は生まれつき猿と蔑視されるわけだ。ハハハ。
僕は、「サバイブし損ねた」んです。
力関係がわからなかった。
おっしゃるとおり、「一緒に仕事をするのは無理」なので、それをわかった上でなんとかやり過ごす=サバイブすることが必要でした。
本当は上司や人事が間に入って欲しかったとかいろいろと思うところはあるのですが、現場でそれを求めることはほとんど無理でした。
僕は「逃げる」べきだったと思っています。
正面からぶつかること自体を避け、別の人間をそそのかして銃を撃たせるような相手に、正面突破を試みることは愚か以外の何ものでもありません。
人間関係はいつも複雑で不条理で、「正論」を言い続ければ相手が変わるものでもなく、論理が通らないこともしばしばです。
そういう機微がわからなかった。
いろんな意味で高い授業料を払ったと思います。
下町だろうが、山の手だろうが、クレイジーな集団に囲まれてそこに適応しているクレイジーな人間はいます。
本人は適応しきっているので、自分がクレイジーとは思いません。常にそこは相対的にものを見ます。
その人間とたまたま出会ってしまい同じ時を過ごさざるを得なくなったときに、そこでどうサバイブするかは切実な問題だと思います。
ただ、少し書かせていただくと、僕は下町生まれ下町育ちの下町っ子ですが、下町は大嫌いですね。
そういう分類からすると、僕だって「猿」です。
関西生まれだから全員吉本が好きなわけではないし、下町生まれで下町育ちだから下町になじめるかというとそういうものでもない気がします。
少なくとも僕の体験ではそうです。
それと、下町全部を僕はサル山だと言っているわけでもない。そういうコミュニティは山の手だってあるだろうし、地方都市にもあります。
山形県マット死事件での地域社会のある側面を切り取ったらあまりにも典型的な「サル山」だったので、ここで引用したいと思います。ちょっと長いですが、生々しいのでそのまま載せます。
いじめ・全能感・世間 - 内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG−さん
児玉家は幼稚園を経営する、モダンな感じの、仲睦まじい裕福な家庭であり、かなり目立つ立派な家に住んでいる。自宅も隣接する幼稚園も、デザインが非常に美しい。有平君の父親の児玉昭平さんも裕福な家の生まれで、理想主義的なことを真顔で話す珍しいタイプである。家族の団らんが趣味で、外で酒を飲まないで家で飲む。十数年前に新庄に移ってきた。児玉家の人は全員標準語を話す。子どもたちは「自律的な個人」となるべく育てられた。有平君は授業中に手を上げて発言し、学校行事でも目立っていた。
このような児玉家に対する妬みや反感も多かった。家の塀には「ころしてやる」と落書きされた。生意気だという近所の老人もいた。児玉家を貶めるための、根も葉もないデマがまことしやかに囁かれた。事件に対して、「あそこの育て方なら当然」という近所の主婦の声もあった。容疑者の身内の子どもたちは、、児玉家の玄関前で有平君の妹をとりかこみ、「兄ちゃん殺されてうれしいか」と罵った。第一節で筆者が中学生のために行った代弁は、「いじめ」を「殺し」に置き換えれば、そのまま地元の大人たちにもあてはまる(「現実」には事件の事実関係は、何から何までわからなくなっている。だが、筆者が聞き取りをした地元の人たちの体験構造のなかの「記号」としては、事件は「殺し」である)。
「遊んでいただけだ」と「やった子どもたち」を弁護する近所の主婦は、有平君の死を「飼っていた虫をうっかり死なせたようなものだ」と言う。「人間の死に重みを感じていない」と記者たちに言われて、彼女は憤懣やるかたない。筆者はよく地元の人から、「せっかくおさまってきたのを、ほじくりかえすな」と言われた。だが「裏切り者」に対する憎悪はもっと激しい。明倫中のある父兄が事件に関して正義派的な発言をした。すると、その妻が学校関係の母親の集まりで執拗な嫌がらせや集団シカトをされた。彼女は、精神的なショックで耳が聞こえなくなってしまった。
以下で代表的な二つの事例の要約を紹介する。(方言による錯綜した会話を、筆者が翻訳・整理した)
〈聞き取り事例・1〉
近所の主婦のAさんは、児玉さんとは面識がない。だが、「かあちゃんたちの間柄(うちら)」のなかで、「児玉さん」をリアルに体験している。
Aさんは言う。「かならずしも、やった子どもたちが悪いとは言い切れない。親も金持ちぶって成金上がりだそうだ。金貸しをしていて、人からよく思われていない。自分たちだけ金で家族をハワイに行かせて、おみやげも買ってこない。幼稚園を改修した後、子どもたちの姿ではなくて、直したところのビデオばかり親に見せた。オレはこんなふうに大きくしているんだ、って感じが前面に出ている。言葉にしても、東京出身でもないくせに標準語を話すなんて『いいふり』としか思えない」。
実際には児玉さんは、金貸しでも成金でもない。問題のビデオは、改修の説明会のビデオである。だが、「かあちゃん」たちは、あらゆる素材をつかまえては、このように体験しようと身構えている。この構造は子どもたちの間にもある。有平君も兄のC君も家族がタクシーで外出するのを子どもたちに監視されていた。あとでしつこく、どこに行ったのかと問いつめられ、喋らされた。有平君が「フランス料理を食べに行った」と答えると、妬む子どもたちはその言葉を、「おまえらには食えないだろう」というふうにリアルに体験する。それが、「児玉のうちの憎たらしいガキが言ったこと」として流布される。
Aさんは「こんなわけで児玉の子どもが殺された」とオチをつけて語るとき、声を出して笑う。「あそこのうちは家族全体が『かわいげ』がない。人間は、金持ちでも、気がしっかりしててもいいけれども、どこか、『かわいげ』があればいい。『おれたちは特別なんだ』って心の中で思っている親子は、人から見れば『かわいげ』がない。親の姿勢とか、児玉君の『かわいげ』のないところが引き金になったんじゃないかって、ここらでは言っている。いじめられる子どもには、どこかいじめられる原因がある。子どもらしくねえ子どもって、『かわいらしくない』っていうべしな。親も加わっているとなると、今度、ウフフフフ(大笑い)。こっちの人は人情的なところがあって、来る者は拒まず、『まじわって』行こうという気持ちがある。だけど、親の気持ちの出し方が、あれではね。子どもが殺されたことに関してはかわいそうだと思う反面、親の態度、フッフフフフ(笑い)。『朱にまじわれば(赤くなる)』って言いますでしょ。こんなふうになったのは、親の気持ちがとけ込まなかったからだ。親も多少なりとも、『朱にまじわる』という気持ち、『地方にまじわる』って、『同じ』って言うんだけど、そういう気持ちがあれば、殺すまでいたずらが昂じなかったんじゃないか」。
Aさんは、「子どもたちの気持ち」を説明する。「いじめたくなるような子どもがいて、いじめているうちに、ここらでやめておくかなぁという気持ちが出てくるかもしれない。でも、なおかつやりたくなるような気持ちがだされると、例えば(1)『同じ』気持ちが出されないと、(2)『まじわらない』で特別な気持ちでいられると、(3)しっかりして自分の我が道を行くっていう気持ちでいられると、(4)いじめてもそのいじめに乗ってこないでなお毅然としていると、子供心に、もっとやってけっかな、って気持ちになる(笑い)。そういうわけで、死に至るまでとことんやってしまったんだろう。殺そうと思って殺したわけではない」。
〈聞き取り事例・2〉
事件が起きる何年も前、B君は有平君の兄のC君を執拗に「いじめ」ていた。そのことを知った父の昭平さんは、学校に乗り込んでいった。それで、「いじめ」ることができなくなった。有平君の死後、B君は学校でC君と顔を合わせた。そのときB君は、居合わせた仲間に「昔トロイやつがいたから、ガツンと一発、社会勉強させてやった」という内容のことを言った。息子からその話を聞いた昭平さんは学校に抗議した。B君は教師に指導され反省文を書かされた。また、教師はこの件についてB君の親に報告し、何度か電話で話をした。筆者はこの件について、児玉家・「いじめ」の目撃者・後の暴言の目撃者・指導した教師に、事実確認を行った。B君の家にも聞き取りをした。そこでは、家族全員と話ができた。
B君一家の言い分をまとめてみよう。
「C君をいじめてはいない。このことで先生から電話がかかってきたこともない。C君を友人に紹介しただけで、言いがかりをつけられた。C君は、いままで目立たないようにびくびくしてきたのが、紹介されて、またいじめられるのではないかと、過敏に反応しただけだ。児玉家は過敏で反応が大げさすぎる」「ちょっとした耐えなきゃいけないことも、いじめにはいる」「ちょっとブルジョワ、ブルジョワ階級ぶってるんじゃないか。ちょとのことでも」「成績で競争することもいじめでしょう」「だからあそこの家は極端だと思いますよ」。
ここで「だから」とつなげるように、イメージの「こざね」とでも言うべき個々の物語の断片を、強い情動を随伴させた迫力のある表情と声とアクセントと頷きあいで、連想的に貼り合わせていく。その間、定期的に「だれから聞いたか」「どこまで知ってるのか」の追求をさしはさむ。「そこらへんの情報源はきちんと出してもらわないと、今度逆に、児玉さんじゃなくて、周りの人間傷つけられるからねえ。児玉さんちだけが被害者でないからなあ。一つの事件が起きれば加害者側も被害者だから、言ってみれば」。
一家は、いじめなら自分たちの方が、よっぽどひどいことをされてきたと切々と訴える。「いじめのおかげで成長できて良かった。いじめる人は先生だ。その人が知恵をつけてくれるから。そうして利口になっていくから。Bはいじめのおかげで大人っぽくなった。相手の顔色をうかがって場の雰囲気を察知できるようになった。それに対して、児玉さんのようなうちは過保護で何も知らないで終わってしまう。児玉さんの家の子は耐える力がない。そのように育てたのは教育者として失敗だ。いじめられるのは幸せだ。いじめられもしないものは、存在感がなく世の中から抹殺されてしまう。」
一家は話の途中何回も、「事実というのはわからない」「事実というのは話す人・見る人・聞く人の角度によってどうにでもなる」「主観のちがいでどのようにもうけとれる」といった、哲学をつぶやく。兄は「自分たちが言ってることもうそかもしれないよ。本当かどうかなんてわからないわけでしょ」と唐突に言う。その直後に「おたくではじめて、ちゃんとした生の声を聞けました」と言われて、兄は「うち、隠さねえから」といい、父が「うちは馬鹿正直で通っているから」といったりする。母は「うちは、いいものはいい、わるいものはわるい」と言う。
母と兄弟は、「世間」に対しては、何をされるかわからないから、注意深くしながら、気迫で相手を押し返すことが重要だという哲学を話す。「良く思われないと何をされるかわからない。会社だって学校だってどこでもそうでしょ」。
「あんたたちだってそうでしょ」。B君一家がしつこく同意を求めることがらは、このことだけだった。それに対して、筆者が「えっ、そうなんですか」と言うと、激怒する。「あんた、知ってるくせに知らないふりをしている」。
その後電話で、多くの人から事実確認をしたことを告げ、再びB君の件を尋ねた。「馬鹿野郎。おめえは世間を知らねえんだ。警察を呼ぶぞ!」といった罵声が返ってきた。