自分で答えを考える想像力や、思考能力ってなんだろう?
それは「編集能力」だと思います。
「編集能力」とはなにか
編集能力とは、「考え方の型を知ること」です。
人は一生のうちで、様々な物事や思考に出会い、思考内容も様々に変化しますが、それらに出会ったときに取る態度やその扱い方の形式はそれほど変わらないものです。
それがその人のオリジナリティになります。
「オリジナリティ」とはなにか
「オリジナリティ」とは、これまで無かった考えや物事を生み出すことではなくて、既存の考えや物事を組み替えることによって生じてきます。
だから、他人の文章やblogの切り貼りもまた、その切り貼りの仕方でオリジナリティを作ることが出来ます。
そもそも労働とは、自然物を組み替えることです。
キャラクター作成論と編集
大塚英志さんのキャラクター作成論でも、「キャラクターとは、既存の属性の組み合わせである」と明言しています。「オリジナリティは、その組み合わせから生じる」のです。
キャラクター作成論と和音理論は似ていて、ドミソの音階を同時に鳴らせばそれは気持ちの良い和音として響きます。どうして響くのかわからないけれど、そういうものとして響きます*1。
ある音階同士を同時に鳴らすと美しい和音がなるという事実を基礎に、その組み合わせで和音の理論は構築されています。
同様に、キャラクター作成論も、要素の組み合わせがキャラクターを生み出す、とされていますが、その要素はこれ以上分割仕様のない要素であり、その分析はほとんど無意味です。
「理論」はあくまで、見いだされた要素の組み合わせの仕方にあります。
「自分で答えを考える想像力」が問題となってくる場面とは
「自分で答えを考える想像力」とか「思考能力」が問題になるのって、これまでに自分が経験してこなかった出来事や他者に出会って、どのような形でそれらを取り扱わなければいけないかわからなくなったときに出てくる問いだと思います。
そして、その問いに対する答えは簡単で、「それには答えがないよ」というのがまず最初の答えです。
その上で、「答えのないものに答えを与える」という創造が必要になってきます。
それもまた、誰かがすでに行っている思考や行動の反復に過ぎないのですが(人間の思考や行動はほとんどすでに行われているものです)、自分という唯一の存在が出会った出来事はたったの一度しか行われないから、それはすべてオリジナルなものなのです。
客観的には陳腐な体験であり、主観的にはたった一度のかけがえのない体験であることを知ることが重要なのだと思います。
その上で、「自分は今これまで考えてこなかったことに出会っているのだから、出来合いの考え方は通用しない」という諦念を受け入れることで初めて、自分のオリジナリティある思考の形式にたどり着くことが出来ると思います。
地図のない砂漠に地図を作ること
岐路に立っている人は、初めて地図のない状態で立たされているようなものだと思います。
ちょうど、砂漠に放り出された状態に似ています。
歩き回って、自分で地図を作らないといけないのです。
そこで作られる地図は、当たり前ですが「地図」なので客観的にはオリジナリティがあるものではありません。
ですが、世界にただ一枚しかない地図でもあります。
「自分で答えを見つける」という問いは、簡単だったり難しかったりします。
文字通りこれまで自分の人生になかったことですから、適当に試してみるところからはじめるしかないわけです。
でも、「よりよい答えがどこかにあるのではないか」と地図を探し回る人は、すごく緻密にこまめに探し回っても、見つけ出すことは出来ないのです。
それは現時点では存在しておらず、自分で書き上げなければならないのですから。
その点に気づくか気づかないか、最初に問われるのはそこだと思います。
むしろ「頭の良い」人の方がこの問題を難しく感じたりします。
「どこかに答えがある」と思いこんだら、袋小路に入り込むからです。
問題に、「文字通り」に答えられる人はあまり難しい問いではなく、そこに様々な空白を見つけて問いをどんどんふくらませていく人にとっては難しい問いである要点は、そこにあります。
現代思想を学ぶ意味はどこにあるか
フランス哲学をはじめとするいわゆる現代思想は、文芸批評という形でこの「思考の形式」の問題に切り込んでいきました。
なぜ直接に思考の問題ではなく、文芸批評という回り道を取ったのかと言えば、それは政治的な問題からです。
それ以前はマルクス主義や実存主義が、同じように文学を経由して、あらゆる思想の基盤として機能していました。
当然、政治的にもこれらの思想が優勢であって、他の思想を唱えることは政治的に危険でした。
それ故、文化人類学、文芸批評、精神分析という迂回路を通って、思考の形式を問題にしたわけです。
今、現代思想を学ぶ意味は、だから直接的な文芸批評や精神分析のためというよりは、思考の形式を学ぶ、という点に集約されると僕は思います。
それらは形式であるが故に内容は空ですが、個々人が直面している現実という内容を取り扱う上での道具を用意してくれます。
現代思想は、一見思考を弄ぶためにあるように見えますが、実際にはそういった考え方を学び道具を手に入れるためにあるのだと思います*2。
感性から自分で自分の地図を作り上げることも、そう言った世界的な知性に触れて思考の形式を学ぶことも、どちらも「自分で考える」という問題に直結すると、僕は思うのです。