生き方のルールが変わった!
何となく曖昧な不安に包まれ、生きていくのがつらい「わたしたち」に。
ロスジェネ論争再考
去年の2月頃、「ロスジェネ論争」というのがはてな村で盛り上がった。
僕も、「敗残兵から一言 - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)」というエントリを書いた。
そのとき、「そんなにつらいなら辞めて起業すればいいじゃん」という声が少なからずあった。
たとえば代表的なのは、id:guri_2氏の「要は、勇気がないんでしょ? - Attribute=51」というエントリだった。
文句を言うな、とかそういうことじゃないんです。
文句を言っている暇があったら行動を起こして、状況変えちゃった方が早くないっすか?と思うのです。
自分たちだけ良い思いをする社長がうらやましい(憎たらしい)なら、自分も社長になって同じことをすればいいし、
会社にいたいなら縦横のつながり作って、自分自身も売り上げあげて、発言力持って、会社を変えちゃえばいいんじゃん?と。
なんしか、方法はたくさんあって、気にくわないところがあればやればいいと思うんだけど、
ただ、文句や不満を言うのは、あんまり状況が変わらないことが多いから意味ないんじゃないかなーと思うんす。
これに対して、「ポジティヴ教だ」という反論が多く上がったが、僕はどうもしっくり来なかった。
この「でも……」の後がうまく言えなかった。
いま、それを、この本
を手がかりに、ちょっと考えてみたい。
生き方のルールが変わった
この本の帯には大きく、「生き方のルールが変わった!」とある。
裏には、こうある。
誰にとっても重要なのは、ゲームのルールは変わってしまったということなのだ。私たちは、二人三脚のように肩を組んで揃ってゴールすることを求める社会から、足を結んでいたロープを解かれ、ばらばらに走り出すことを求める社会に放り出されてしまった。
これだ。
この変化なんだ。
この辺が起きた時期が、ちょうど僕が学生時代を過ごした90年代初頭から起きた。
それまでの常識は、「レールに乗れ」だった。
良い学校、良い会社に行けば、安泰だ。
敷かれたレールに乗ること。それが「ルール」だった。
そのレールが、バブル崩壊後ぶっ壊れた。
ロスジェネとひとくくりにされる「就職氷河期世代」は、まさにそういう時期に社会に放り出された人間だ。
すでにロスジェネという言葉自体が陳腐なものに変わりつつあるが、この「ルールが変わった」時代の象徴としての意味はあると思う。
ルールが変わったことの両側面
この「レールが壊れた」=ルールが変わったという意味は、ネガティヴな側面とポジティヴな側面がある。
- ネガティヴな側面としては、「安定はない」ということ。
主な格差論はこの論調だ。たとえば
など。- ポジティヴな側面としては、「自分の身を粉にして学校、会社、地域といったコミュニティに属さなくても、なんとか生きていくことが可能になった」ということ。
終身雇用、完全雇用の崩壊がもたらしたものは、人々が「リスクを取る社会」に放り出されたと言うこととともに、
ということだ。
僕らは、これまで何らかの特定のコミュニティに属することが、すなわち生きることだった。
- 家族の中で不平不満を持ちながらも、苛つきながらもそこに属していれば、生きていけた*1 *2。
- 会社の中でくだらない仕事をさせられながら、いじめ いじめられあいながらも属していれば給料をもらえ食っていけた。
- そして、地域に属して、家と車というステータスを持つことで地域から承認された。ご近所さんの顔色をうかがえば生かせてもらえた。
そういう社会が、壊れた。
ルールが変わったのだ。
議論の食い違いの根底
この「ルールが変わった」前後で議論しているから、食い違うのだと思われる。
ぶっちゃけ、10数年前は
自分たちだけ良い思いをする社長がうらやましい(憎たらしい)なら、自分も社長になって同じことをすればいいし、
会社にいたいなら縦横のつながり作って、自分自身も売り上げあげて、発言力持って、会社を変えちゃえばいいんじゃん?と。
高杉良の小説でしかあり得なかった。
一部のスーパーエリートしか不可能だったのだ。
だって、その変化は、会社そのものをひっくり返すしかなかったから。
そんなもの、源氏鶏太の小説か、サラリーマン金太郎くらいしか出来ないよ。
それが、今は地域のルールも会社のルールも変わったことで、「小さな自己実現」が(もちろん厳しいことだが)可能になった。
IT関係のフリーランスで働く人々の多さと、求人数の増加をなどを見ると、そういった「小さな自営業」が増えていることが感じられる。
副業を行うことで、消費を押さえ、「自分らしい」生き方を模索している人も多い。
そういった生き方は、もう特殊な例ではない。
変わったルールの下で思考する
この「変わったルール」は、すでに存在するものだから、どうしようもない。
これをどのように捉えるかが重要なのだと思う。
ぶっちゃけ、id:dankogai氏の言った「マッチョ」は、10数年前の「スーパーエリート」像だ。そう捉えられても仕方がない。
(もちろん小飼弾氏はそのつもりはなく、「ルールが変わったのだから、なぜ君たちは古いルールの前でぐずぐずしているんだい?」と言っている。たとえば「404 Blog Not Found : バイキング式のレストランで給仕を待つ君たちへ」)
しかし、スーパーエリートである「マッチョ」でなくても、小さな自己実現が可能だという、いわばオルタナイティヴな方向を模索していくことが、今可能になった。
僕らは、ネットで、リアルで、これまでのコミュニティとは異なる「繋がり」を作り、そこにオルタナイティヴな生きる方法を模索していくことが出来るようになったのだ。
堅い、決まり切った「社会」が崩壊するとともに、「ウィンプ」でも生きていける「ニッチ」な場所もまた開けてきたのだ。*4
その点に、希望はあるのだと思う。
id:guri_2氏が言いたかったことも、この変化を前提にしないと掴み損ねると思った。
まとめ
僕らはリアルな特定のコミュニティ(学校、会社、団体、地域)に「生かされる」度合いが低くなってきたので、頭を切り換えましょう。
古いルールでは「死ぬしかなかった」ウィンプたちも、この世の中ではニッチな場所で生きていくことが可能になりましたよ。
だから、僕らは新しい「繋がり」を作っては壊し、作っては壊し、自分の居場所を作っていきましょう。
そして、生き抜いていきましょう。
参考
僕は、自分でもこの「変化」を明確に認識していなかったけれど、この変化を象徴したエントリを書いていた。
昔の「登校拒否」は、ネガティヴで罪深く世間から隠されるべき「穢れた存在」だった。
それが今、「不登校」という言葉で変化し、学校以外の「繋がり」を多くもてるようになった。
その変化にネットも大きく貢献している。(ぜひ「サバイブSNS2.0」にご登録ください!)
ただし
著者の鈴木謙介氏はこんな乱暴なまとめ方はしていないので、その点は付け加えておく。
追記
僕はこの本から強い影響を受けている。
この本で言われている「新しい秩序」を、社会全体で一気に変えるのではなく、小さな繋がりの中で別の秩序を作っていくことが可能になってきている気がした。
その点で、荻上チキさん(id:seijotcp)にidトラックバックを飛ばさせていただく。
*1:たとえば尾崎豊の「卒業」に対して、「なんでこんなに学校にしがみついているのだろう」という感想が若い子からは出るという
*2:このエントリ「Archives - 内田樹の研究室」がその理路をかなり明快の述べていると思う
*3:女性と性関係を持って、なんだかよく分からない仕事をして成果を上げていく姿が見事ですね
*4:以前否定的に捉えたid:fromdusktildawn氏のエントリ無学歴、無職歴、無実力のニートが年収500万円の正社員になる方法 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだは、今も読まれるべき好エントリだと思う。というか、現時点で僕自身がこういう方向に行きかけている(笑