reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「議論をつくす」という言葉の意味

議論を尽くす、か。言葉ってコードだから、コードの錬成の上位者には絶対にかなわないんだよな。「議論しないよりはましかどうか」という点で結論を出してから、負け戦に覚悟して出て行き、落とし所にうまく落としこむしかないんだな。プログラマ最強だな。


議論ってのは、「どのコードに従うのか」の争いで、議論なしで従わされるよりは、まだワンチャンスある、とは言える。おしゃべりと議論はぜんぜん違う。意見の違いを摺り合わせる必要は、どのコードに従うのかの争いがなければする必要はない。


手品の視線誘導のテクニックとかが、視覚的に分かりやすい「コード」だと思う。物語のプロは、感動とか興奮とか恐怖とかを相手に体験させるために、相手の心を揺らす。揺らすために、鎧を外す。外すために、心の重点をずらす。いくつもの仕掛けで心の状態をそこに持っていく。


もしくは、他者に訴える。「議論」という演説を行い、聴衆の同意を得る。そうすると、特に本人が何もしなくても、聴衆が代わりに行動してくれる。そういうときの「正義」に支えられた行動は、相当残酷。やられるとわかる。


議論を「戦わせる」とき、相手といま、なにを「勝ち負け」で争っているのか、そうでないのか、はっきりさせることが前提。


要するに何が言いたいのかというと、「今こそ国民的議論が必要」という言葉は大切でそのとおりなんだけれど、その中身は権益の引っ張り合いだよ、ということで、「国民的議論が必要」という人はそこを織り込み済みで、自分の土俵に引っ張っていることを理解してそこに乗らないとね、ということ。