本質的に副産物としか得ることの出来ない果実
昔々、ある若者が財宝を求めて旅に出た。
財宝のありかが示された地図はボロボロで、いかにもうさんくさいものだったが、若者はその地図を信じ、というかのめり込み、財宝を求めて旅立った。
いくつかの試練を超え、多くの人に出会い別れ、旅を続け、ついに財宝のある場所にたどり着いた……らしい。
らしい、というのは、その若者がすっかり雄々しい姿になって戻ってきたあとで、そのように話をしたからだ。
そして、そこに財宝はなかったよ、と若者は笑った。
その若者のそばには、旅で出会い恋に落ち生涯をともにすると誓った伴侶がいた。
若者は得がたい宝を、もう手に入れていた。
財宝など無くても、最高の宝が、そばにいる。
その宝は、若者が旅に出ようと決意したときには思っても見ないような宝であり、そして目指したものでもなかった。
けれど、若者が旅に出なければ、その宝は決して手には入らなかった。
出会いは偶然だったが、そのために旅に出ることは必要だった。
たいせつなものは、いつもそんな風に、思いがけない形を取って、思っても見ない方向から、思いがけない人を経由して得られるものなのかも知れない。
苦労したからそれを得られた、と人は遡及的に考えがちだが、苦労してその先には何もなく、振り返るとそこにたたずんでいるものが本当に大切なものかも知れない。
目的を達せられなかったと悟ったとき振り向くと、すでに大切なものは手に入れられているのかも知れない。
「グングニル」BUMP OF CHICKEN