reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

自傷

前回のエントリの続きのようなもの。


僕は、自傷の延長線上に自殺があるのだと思っている。

僕は自傷は肯定も否定もしない。

それは一つの行為に過ぎない。


では、自傷とはどういうものか。


不安感に駆られて、心を満たすものがなくなったとき、人は、ふつう

  • 誰かと抱き合ったり
  • 声をかわしたり
  • 好きな音楽を聴いたり
  • 好きな場所で気持ちの良い風に当たったり

して心を癒す。


大切なのは、不安感→適当な刺激→安心感、と言う流れ。


で、自傷も同じ。

不安感→自傷→安心感、と言う流れ。


「適当な刺激」に、大好きな人の抱擁と、自傷という、誰が見ても真逆に思えるものが入ってしまう。


それが不思議なところだけれど、「自傷」には、そういう効果がある。

それだけのことなのだ。


なぜ「自傷」によって癒しが得られるのか、やっている本人だってわからない。

けれど、癒しが得られ、それを行ってしまう。

そして、自分だって自傷することに良い感情は持っていないから、罪悪感は感じる。

それでも、不安感に駆られて、それ以外に適当な選択肢が見つからなければ、自傷に走る。


たぶんそれは、内在した感情の発露、と言う点で一つのカテゴリーに入るものなのだろう。

感情の発露が、外的か内的か、怒りか喜びか、そのベクトルや方向性に違いがあっても、感情の発露であることに変わりはない。

だから、たまたま、自傷を選ぶ。

選ぶと言うより、それ以外には選択肢が見えない。


叫べればいいのかも知れない。

そこら中を蹴りまくれればいいのかも知れない。

でも、それだけの心の力がないときに、自傷に至る。


自分を傷つけている、と言う認識と、結果としての癒しとの間の解離。

これがどんどん大きくなると、自分を破壊する行為が、もっと進む。


言葉があれば、結果は違うのかも知れない。

自傷という行為は、非言語的だ。

言葉にならない怒りの源泉のようなものが、そこには詰まっている。


僕は、行為者の未熟さと、自傷に至る頻度は比例していると思っている。

僕もまた、自身の行為を対象化し、他者と上手に折り合いをつけられるだけの成熟さを持ち合わせていない。

だから、自傷を行う。


様々な物理的・心理的要因で傷ついた心を癒すために、自傷を、行う。


だから、いつの間にか死んでしまうこともある。

自殺と自殺以前に明確な線引きなんて無いから。